嚆矢
雅治が目を離せずにいると、向こうも視線に気づいたのか一瞬目が合ったような気がした。
(ーちゃんと呼ばれます。ちゃん……っ)
「それじゃ……苗字の席はあの空いてるところで」
「はい」
そう言って担任が指さした先は6列あるうちの真ん中、一番後ろの左側。名前はこくりと頷くと示された席へと向かう。徐々に近づいてくる名前に雅治はどう声をかけようかとそわそわしながら彼女は座るのを待つ
(久しぶりじゃの?いやそもそも向こうは俺のことを覚えてるんか……)
「あの、よろしくお願いします」
そう言って控えめに笑う名前の視線の先には
「は、はいっ」
名前も知らないクラスメイトが。
雅治の隣の席であるその男子生徒は、名前に笑いかけられて少し上ずった声で頭を下げる。
(なんでじゃ……っ!!)
雅治は隣にいる名前も知らないクラスメイトを睨んだ。そもそも雅治は隣が男だと言うことすら知らなかったのだ。今も目に入っていたのは名前だけで己の隣に来るものだとばかり思っていた。
朝のホームルームが終わると瞬く間に名前の周りには人が集まり、質問大会が始まる。人波の隙間から見える彼女は控えめな笑みを浮かべ転入生のお約束イベントであるそれに、律儀にも順番に答えていた。
ガタッ……
思いのほか大きな音を立てた椅子は、先程までざわざわしていクラスメートの視線を雅治へと向けさせる。そのまま名前の方へ足をゆっくりと向けるが
「ふわぁ〜あ……」
わざとらしく伸びをして、人だかりの横を通り過ぎるだけで、そのまま足は廊下へと歩いていった。
内心は……すぐにでも話しかけたい、ーちゃんと呼ばれます。ちゃんは俺のことを覚えているのか知りたい、と思っているがクラスメイトの手前、どうしても素直に話しかけることが出来ない。この時ばかりは自分に染み付いた詐欺師と言うキャラクターを恨んでしまいそうだ。
それでも淡い期待をせずにはいられず、もしかしたらすれ違いざまにあっちも俺の方を見て気づいたんじゃないか、もしかしたらこのまま追いかけて来てくれるんじゃないか……そんな妄想とは裏腹に何の障害もなく廊下へ出た雅治は肩を落としていつも以上に猫背のまま歩き出した。人目がなければ膝をついて四つんばいの状態にすらなりそうな程落ち込んでいた。
のそりのそりと屋上へと繋がる階段上り、扉を開ける。もちろん授業開始のベルならばとっくに鳴っているが、今の雅治は授業を受ける気分じゃないとサボることにした。
立海の屋上は園芸部の活動場所でもあるためいつも鍵が開いているが、さらにその上にある給水塔は登り口が分かりづらいし、一応立ち入り禁止になってるおかげで人が上がってくることは無いに等しい。そのため雅治のサボり場所のひとつとなっていた。給水塔に背中を預け目を瞑っていれば心身ともに疲労している雅治に睡魔が来るのはあっという間で抗うことなく意識を手放した。
ガチャっと扉の開く音がしてうっすらと目を開く、まぁここにまではこないだろうと覚醒しない頭でもう一度目を閉じるとしばらくして少し近くに人の気配がする。雅治は夢現のままその気配を探るが近寄ってくる気配はなく、やはり夢かの……と再び意識を手放そうとするが、薄れゆく意識の淵で聞こえる声
「ただいま、まーくん」
「……!!」
それはずっと聞きたかった名前の声で、雅治はすぐに目を開いた。しかし目の前には誰もおらず屋上には彼しかいない。
「……はは、夢……かの」
妙にリアルな夢に雅治は自分の妄想力に呆れる。今の時間を確認するために携帯を開くと同じテニス部の真田から着信とメールが……
「面倒な奴にバレたぜよ」
ちなみに時間はちょうど2限目が終わるところで、のろのろと階段を降りていくとちょうど終わりを告げるチャイムが鳴った。
メールには今度やる合同練習についての変更があるためプリントを届けたが、不在だったためクラスメイトに頼んだというもので。
面倒だが真田を放置すると後々もっと面倒なことになる事も分かっている雅治は先にフォローを入れるため真田のクラスへ向かう。
「のぉ、真田はおるかの」
「む、仁王」
「よう、さっきは悪かったきにプリントもすまんのぉ」
生真面目な真田の事だからサボったことに対して怒号が飛んでくるだろうが休み時間はたかだか5分。流して教室へ行けばそんなに時間は取られんと踏んでへらりと笑う。
「ああ、気にするな。たまたまお前の教室の前を通ったのでついでに持っていっただけだからな」
「ほぉ、そうじゃったか」
特に変わった様子のない真田に雅治はついつい警戒してしまう。いつもの真田であれば授業をサボったなど分かれば、数メートル先にも聞こえそうなほど重い声でたるんどる!!と説教が飛んでくるのだが
「それよりも体調は大丈夫なのか?朝から調子が悪かったと聞いたぞ」
「……あぁ、もう平気ぜよ」
「ふむ、立海テニス部たるもの体調管理も自己責任だからな、気をつけろよ」
とりあえず話を合わせておいたが、雅治はどういうことかと心の中で首を傾げる。どうやらクラスメイトの誰かは知らんが真田を誤魔化してくれたみたいじゃな……
「おー気をつけるきに……そーいやプリントは誰に渡したんじゃ?」
「ん?まだ受けっていないのか。お前のクラスの女子生徒だ。名前は苗字と言っていたな」
「…!」
「ふむ、苗字名前、今日からうちへ転入してきた女子生徒だな。親が転勤族でここに来る前は大阪の四天宝寺にいた。過去に転校した数は8回」
突然話に入ってきた参謀こと柳に表に出さないまでも多少驚いた雅治は不自然にならない程度に距離を開けた。柳は気にしたふうもなく自前のノートを広げながら2人の輪に入る
(参謀は気配が読みづらくて敵わんの……)
「さすが参謀じゃのぉ情報が早い」
「…ふっ、なかなか興味深い人物だからな」
「ほお、蓮二どういうことだ」
「彼女は四天宝寺でテニス部のマネージャーをしていたようだ、さらに言うならその前に居た獅子楽でもテニス部のマネージャーをしている」
「ふむ、つまり」
「ああ、是非とも今募集しているうちのマネージャーに欲しいところだな」
ぱたんと柳がノートを閉じるのと同時に予鈴が鳴る。
「続きは昼休みに話そう。精一にも話しておかないといけないしな」
「あぁ承知した。仁王も分かったな」
「あーリョーカイぜよ」
「では教室へ戻るとしよう」
そうして自分の教室へ戻っていく面々は、自分たちが注目されていたことに気づいていないらしい。正確には分かっているが気にしていないという風なのだか。
雅治にとってはそんなことよりも柳の情報の方が気になる。参謀はどこまで名前のことを知っているのか……知りたいが1人の人物、しかも今日転校してきた女子生徒について己が聞くのはどうしても不自然になってしまう。悶々としながら教室へ戻った雅治なのだった。