可愛くなれないロマンス


「困りましたね」
乗り合わせたエレベーターが停止して、彼は低い声で呟いた。

外回りから戻った私は、執務室に行くためにいつものエレベーターに乗った。同乗したのは背の高い男性で、会社の名札を掛けていないことから、外部の人間と思われる。エレベーターが動き始めてすぐに大きな揺れを感じた。上昇する時の揺れとは明らかに異なり、地震だとわかった。そして、揺れが止まると同時にエレベーターも止まった。
「嘘……もしかして地震で?」
「そのようです。当然だが扉は開きませんね」
止まってから、かれこれ五分は経つ。大きな地震が発生したなら社内で何か放送があるはず。そして、放送があればここにも聞こえるはずだ。停電や機械の故障でそれができない状態なのかもしれない。

「私は今日初めてここへ来た。非常時の対策はどうなっている?」
「えっ?あの……」
「失礼。大規模な建物だから、おそらく停電時のバッテリーがあると思います。正常に作動すればじきに動くでしょう。もっとも、揺れで建物が曲がっちまったら無理でしょうが」
状況が飲み込めず混乱している私とは対照的に、彼はすらすらと喋ってみせた。
「あなたは何年ここで働いてますか?」
「5年になりますが……」
「地震や火災、水害が起こった時の対策は?」
「ええと……確か、防災管理部から避難指示が出ます」
「それだけ?」
「は、はい」
「全くもって防災意識が低い。毎日何も考えずに働いているんですか?」
「ちょっと。そんな言い方……」
面識のない男性から説教のようなセリフを浴びせられ、私は狼狽した。初めて会った人になぜここまで言われなければいけないのか。そう言い返したいところを堪えた。自分の職場の防災システムについて知らないのは事実だから、何も言い返せない。一応避難訓練に参加した記憶はあるが、それがいつだったかも思い出せない。

「私は会社を経営していて、社員の安全を守る責任がある。あなたのように意識の低い人間がいると」
「立派なことですけど、こんなところにいたらどうしようもないですね」
何か言わなければ気が済まなかったのだろう。彼が話し終わらないうちに言葉を発していた。しまった。なんて大人気ないんだろう。彼はムッとしたように唇を結んだ。沈黙が訪れた。とても気まずい雰囲気だ。それでも、この状況では待つしかない。デスクに残してきた仕事を午後に片付けたかったのに、この調子では残業確定だ。自然とため息が出た。

「ハァ……トイレに行きたくなったらどうしよう」
「口を開いたと思えば排泄物の心配とは」
彼に尋ねたわけではなく、独り言を呟いたつもりだった。言わなければよかったと後悔した。
「今は非常時だ。尿でも便でも隅ですればいい」
「なっ……」
確かにいざとなったらそうするしかないけれど。なんてデリカシーのない人だろう。そして、暗に役立たずと言われて腹が立った。確かに、防災の知識はなく、秀でた能力もない。私が役に立てることはないのだから、もう何も話さないほうがいいだろう。

伸ばしていた脚を抱えて体育座りになり、額を膝にくっつけた。なんだか疲れた。外回りから戻ってご飯も食べていないのに、こんなことになるなんて。いっそ眠ってしまえば体力を消耗しなくて済むだろうか。そう考えた時、肩に何かが触れた。
「どうぞ。開封していませんので」
彼が水のペットボトルを差し出していた。
「汗をかいている。緊張からか呼吸も速い。喉が乾いているはずです」
「でも、大事な水を頂くわけには」
「私は医療従事者ではありません」
「はぁ」
「つまり、脱水や過呼吸で倒れられると迷惑なので」
言われて初めて、呼吸が浅く速くなっていたことに気づいた。このままでは彼の言う通り過呼吸になるだろう。再び差し出された水を受け取って、深く息を吸った。
「わかりました。じゃあ、一緒に少しずつ飲みましょう」
彼は頷いた。お礼を言って、唇をつけないようにそっとペットボトルを傾けてそっと水を飲んだ。乾いた口内が潤っていく。とても美味しく感じた。
「すみませんでした」
「えっ?」
「きつい言い方をして」

なんだ。優しいところもあるじゃない……。
閉じ込められたことで気が動転して、今まで彼の身なりを見ている余裕はなかった。綺麗に整えられた頭髪に、精悍な顔つき。スーツはもちろんのこと、時計や鞄などの持ち物も上品で素敵だと思った。会社を経営しているという話は本当だろう。もっと違う場所で出会っていたら、仲良くなれたかもしれない。
「何をジロジロ見てるんです?」
「別に……何でもないです」

お尻が痛くなったので立ち上がって伸びをした。他にすることもないので、立ったまま鞄から社の広報紙を取り出して読んだ。その時、再びエレベーターが揺れた。最初の揺れよりも大きかった。
「きゃっ」

バランスを崩したのに、私は倒れていなかった。後ろで座っていたはずの彼が背中を支えてくれたからだ。
「ありがとうございます……」
「ここは落下物の心配はないが、揺れは続くだろう。座っていたほうがいい」
「さ、酸素って無くならないですかね?」
会話が噛み合っていないことを自覚しながら、緊張で変なことを口走ってしまった。彼は怪訝そうな顔をした。
「ほら、ここは狭いから大丈夫かな?って」
「そこの通気口から送風があるので心配ないでしょう」
閉じ込められたことによる焦りと緊張で、心臓が鳴りっぱなしだ。見ず知らずの人とこんな場所に二人きりで、緊張しないわけがない。よく考えたらここは密室なのだ。

「そうだ。確か……」
【防災の観点から、建物の複数箇所に防災用品を設置しましたので、ご承知おきください】
入社したばかりの頃に防災管理部からそんな通知があり、その防災用品はエレベーターにも設置されたはずだ。しかし、肝心の案内がどこにもない。これでは設置した意味がないが、ひとまず彼にそのことを伝えてそれらしい物を探す。エレベーター内の鏡の下に、収納式の小さな取手を見つけた。
「たぶん、これです」

鍵はかかっていないものの、いたずらや盗難を防ぐためか扉は頑丈だ。手間取っていると、彼が代わってくれて難なく開いた。やっぱり男性の力は頼もしい。何よりも、彼は冷静沈着で判断力に優れている。閉じ込められたのが私一人だったら、ここまで落ち着いていられないだろう。一時は腹を立てていたけれど、今では彼を尊敬する気持ちになっていた。

「良かった。これで少しは安心ですね」
扉の中には、やはり防災用品の袋があった。飲料水と食料品と、毛布、非常用ライト、簡易的な救急箱などが入っていた。
「そういえば、社員の安全を守る責任があると言ってましたね。会社は大丈夫なんですか?」
「ええ。耐震性に優れているので、あの程度の地震は心配ありません。防災用品は揃えているし、シェルターを完備していますよ」
「シェルター?凄いですね。危険が訪れた時は避難させてくださいよ」
「ここを出られたらの話ですね」
「あはは……そうでした」

閉じ込められて二時間が経つ。危機的な状況には違いない。それでも防災用品が見つかったことと、彼が悪い人ではないとわかったことで、少しだけ心に余裕が生まれていた。

更に三十分ほど経った頃。これまで何も聞こえなかった扉の外が、ガヤガヤと騒がしくなっていた。外は見えないけれどすぐ近くに人がいる。扉を叩くと、こちらに何かを呼び掛ける声が聞こえた。更に数分後、機械の作動音と金属音が聞こえた。扉を機械でこじ開けているらしい。扉の隙間から消防士と思われるオレンジ色の制服が見えた。
「お怪我はありませんか?動かずに待っていてください。すぐに開けますからね」
力強い言葉に安堵した。呼び掛けてくれた人の後ろに何人もの消防士が立っているのが見えた。ようやくここを出られるのだ。

「フッ……」
彼が突然笑ったので、私は思わず顔を見上げた。
「用を足さずに済んで良かったですね」
「そうですね。本当に」
緊張が解けて、自然に笑顔になることができた。彼も笑っているようだった。

エレベーターを出てすぐのところにあるホールは、ベンチがいくつか設置されているが、普段利用する人は少ない。今日は、社員も一般の人間も関係なく避難した人々でごった返していた。怪我をした人もいるようだ。私たちは、エレベーターホールの一角に設けられた救護スペースに案内されたものの、喉が乾いたこと以外は特に変化がなかった。しばらく休養をとるよう言われたが、怪我人ではないので早々に引き上げた。

「あの……色々とありがとうございました」
「失礼な振る舞いを謝ります」
「気にしてません。お互い無事で良かったです」
こんなに地震の被害が出て混乱した状況だ。もう今日は仕事にならないだろう。エレベーターで三時間近い時間を過ごした疲労感と、そこから出られた解放感と、急いで仕事をする必要がなくなったことの嬉しさ。様々な感情が混じっていた。

「ところで……」
じゃあ、これで。そう言って去るつもりだった私は、彼からの突然の呼び掛けに驚いた。

「せっかくの縁だ。終業後にコーヒーでもいかがですか?」
今日会ったばかりで名前も知らない女性を誘うなんて、やっぱり失礼な人だ。非日常を体験したことで彼の振る舞いに慣れたようで、不思議と不愉快ではなかった。
私は、笑って頷いた。

2022.3.29

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