今日はカナリア色


天気は快晴で、風もなく過ごしやすい気温。絶好のお出かけ日和だ。予定通り出発できていたなら、今頃は新幹線の中でお弁当を食べていただろう。30分前、家を出ようとした時に峯さんの携帯電話が鳴った。タイミングが悪いことに本家からの召集命令で、旅行どころではなくなってしまった。当日に予定が変わることは珍しくなく、それが不可抗力だとわかっているから愚痴をこぼすことはない。だけど、今回の旅行は一週間前から計画していただけに気持ちの落胆が大きかった。おまけに組の方でもトラブルが発生したようで、何時に帰れるかわからないそうだ。

「すまない」

予約を入れたホテルにキャンセルの連絡をして、携帯電話をデスクに置いた時だった。別の部屋で電話を掛けたのに、いつの間にか背後に峯さんが立っていた。私服からいつものスーツに着替えた彼は、表情を曇らせているように見えた。

「きっとまた機会がありますよ」
「……ああ」
「できれば早く帰ってきてくださいね」

月並みな言葉。それが励ましになったのかわからないけど、張り詰めていた空気が和らいだ気がした。余計な心配をかけないように強がったみたものの、広い部屋に一人になると寂しさが募った。


右手に握ったシャワーに意識を戻した。出しっぱなしの水で車体を流すと目立った砂埃が取れて、鬱々とした気持ちが少し晴れた。峯さんが仕事に行ってる間、私にできることは次のお出かけに備えるくらいだから、洗車をしたいとお願いした。すると、彼はあっさり車の鍵を渡してくれた。
コンシェルジュが常駐し、屋内プールやフィットネスジム、バーラウンジなどの施設が揃ったここは、いわゆる高級マンションだ。初めて訪れた時、マンションというよりホテルみたいだと思った。更に最近になって、洗車場の存在を知った。地下駐車場と同じく建物内にあるので、天候や時間を気にせず車を洗えるのだ。峯さんも利用したことがない洗車場に恐る恐る車を移動させて、今に至る。

複数の洗い場には専用のシャワーが備え付けられて、駐車スペースの周りはタイヤが脱輪しない程度の溝があった。溝の中は傾斜になっていて、そこから排水ができる仕組みだ。洗車場という名は伊達ではないと感心しながらノズルを切り替えて、洗剤を入れたバケツに水を注いだ。高い水圧ですぐに大量の泡が出来上がった。
旅行は中止になってしまったけど、せっかくの休日を一緒に過ごせたらどんなに嬉しいだろう。そんなことを考えていた時、聞き覚えのある革靴の音が近づいてきた。

「峯さん!」
「今帰った」
「お仕事は……」
「いいんだ。ひと段落した」

鞄と上着を置いてきたらしく、峯さんはシャツとスラックスという身軽な格好だった。女らしさのかけらもないジャージ姿を見られてしまったけど、願いが叶った喜びの方が大きくて胸が高鳴った。不意に、峯さんの体が背中にぴったりくっついた。触るわけでも抱きしめるわけでもなく、立ったまま微動だにしなかった。

「峯さん?」
「すまない」
「いいえ。私が好きでやってるので」
「いや、車のことじゃない」

すまないと言われるのは、今日で二回目だ。旅行が反故になってしまったことを謝られているのだと、少し考えてようやく気づいた。

「謝らないでください。今回は残念だったけど、帰ったら計画を立て直しましょう」
「そうだな」

峯さんの顔を見るまで一人でモヤモヤしていたのに、私はとても単純だ。その場で小躍りしたくなるのを我慢して、右手に持ったスポンジで少しずつ泡を広げた。

「唯子にこんな特技があるとは知らなかった」
「特技というほどじゃありません。実家でよくやっていたので慣れたんです」
「そうか」
「こんなに格好良い車は初めてですけど」

良い意味で普通ではない車、しかも外国産。見た目のインパクトこそ大きいけど、一般的な乗用車より車高が低くて洗いやすい。ただ横幅が大きい分、屋根の面積も広いので時間がかかりそうだと思った。

「ここはまだだな」
「え?」

正面から声が聞こえて顔を上げると、車を挟んで向かい側に移動した峯さんと目が合った。はいと声に出して頷くと、もう一つのスポンジを取って黙々と屋根を洗い始めた。

「服が汚れてしまいます」
「ああ。別にいい」

作業がしやすいようにシャツを捲っているけど、革靴ではきっと動きにくいし、綺麗に折り目のついたスラックスに泡が飛びそうだ。そんな心配をよそに峯さんはテキパキと動いて、屋根の半分を洗い終えてしまった。

「手が止まってる」
「あ……はい」

一緒に暮らしていても、二人で協力して何かをする機会はほとんどない。車を洗っているだけで特別なことは何もないけど、私はこの状況を楽しんで浮き足立っていた。峯さんは屋根とボンネットとガラスを、私はサイドとリア部分を洗った。

「綺麗になりましたね」
「あまり時間かからないものだな」
「はい。峯さんのおかげです」

全て洗い終わって泡を流すと、くすんでいたイエローカラーが見違えるようだった。後は全体の水気を拭き取って乾かせば完成だ。


「唯子」

峯さんが空中を指差した。コンクリートでできた灰色の天井があるだけで、特別何かあるようには見えない。じっと目を凝らすと、巨大な蛾がこちらに向かって飛んでくるのが見えた。虫が大の苦手で特に翅の生えたものが大嫌いな私は、突然の出来事に驚いて悲鳴も出なかった。反射的に顔を覆うようにして、シャワーを握った右手を掲げていた。水を出したままだと気がついたのは、峯さんにそれが当たってからだった。私を気遣って蛾の存在を教えてくれたというのに、血の気が引く思いだった。

「峯さん!大丈夫!?」

水浸しの峯さんに駆け寄り、手に持ったタオルを渡そうとして思いとどまった。車を拭く用に持ってきた雑巾同然のタオルで顔を拭くなんてとんでもない。だけど濡れたままにもできない。動揺するあまり、私はパニック状態に陥っていた。

「ごめんなさい」
「……」
「あ、あの……私、タオルを取ってきます」
「必要ない」

それはとても低い声だった。服が汚れても構わないと言ったけど、頭から水を浴びるなんて想像もしなかっただろう。峯さんは濡れた顔を拭おうともせず、呆れた表情で私を見ていた。無言の時間が怖いのに、綺麗な顔が濡れてしまったことで艶っぽさを増していた。見とれている場合ではないのに目が離せないなんて、どうかしてしまったらしい。本来の意味と違うけど『水も滴るいい男』とは彼みたいな人のことを言うのだと思った。

「また馬鹿なこと考えているだろう」
「えっ!」

仁王立ちしていた峯さんが、こちらに向かってじりじりと距離を詰めてきた。後ずさるとすぐに行き止まりになって、ピカピカのボンネットに背中を倒す格好になった。そこへ峯さんが覆いかぶさって、髪を伝って落ちた水滴が肌を濡らした。

「きゃ……!冷たっ」
「仕置きが必要だな」
「い、今ですか?」
「ここでされたいのか?」

峯さんが本気でこんなことを言うはずがない。だけど、息づかいを感じるほど近くに顔が迫って、それが冗談に聞こえなかった。

「部屋がいいです!」

胸の前で両手を握りしめると、峯さんの腕が背中を支えて起こしてくれた。峯さんは濡れたまま運転席に乗り込むと、5分足らずで車を移動させて戻ってきた。空になったバケツにタオルと洗剤を放り込むと、反対の手で私の腕を掴んでエレベーターへ移動した。部屋がある階に到着して廊下を歩く間もがっちりと固定されて、離れることは許されなかった。

「お仕置きって、何するんですか?」
「さあ。なんだと思う」

峯さんは唇の端を片方だけ吊り上げて笑っていた。そんな悪い顔を見て昨晩と同じくらいわくわくしている自分がいる。どんなお仕置きなのか想像すると怖いけど、彼が楽しそうなら私も楽しい。一日はまだ長いから、それが終わった後はドライブデートをおねだりしようと思う。峯さんに気づかれないように笑って、太い腕に体を密着させた。


Thanks:椿屋さま
タイトル:コペンハーゲンの庭で
2018.10.29

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