夕暮れ時に逢魔が時があるのなら、夜と朝の狭間に横たわるこの早朝には、果たして何と出逢うのだろう。
開いた瞼は、幾度閉じようとも再び眠りに落ちる事はなかった。朔弥は上体を起こすと、頬に落ちる髪をそっと耳の後ろに掛ける。すらりと立ち上がる所作に無駄は無く、寝起きである事をまるで感じさせない。
或いは、これも夢であるかもしれないのだから――何処から何処までを現実とするか、夢とするかなど、本当の所は誰も分からないのではないか。
そこまで思考して、ふと我に返る。らしくない、奇妙な感傷だ。
障子に張られた紙を通して入ってくる光は淡く、全てを均等に照らし出している。ゆえにそこに濃い影はなく、また強烈な閃光もない。
曖昧な感覚の中でたゆたう、この不確かさこそが、現と夢幻とをぼやけさせている一因だろう。兎角、人は目から入る情報を過信する。敵か味方かを分ける大きな因子として、まず外見《かたち》を頼りにするのが、何よりの証拠ではないか。
経験という根拠をもってして結論づけると、寝間着のままで、外界と室内とを隔てる頼りない紙の境界へ歩み寄った。肌がさざめき、瞳の奥が軋む、錯覚を覚える。
眩暈に似た衝動を堪えるように、片手で額を押さえて視線を下に向けた。と、思わず、小さく息を呑む。
あるはずのない影、が。
「――……ああ」
灰色をした曇天を胸の内に詰めたなら、こんな心地なのだろうか。
心の中から沁み出して、遂には体を余すところなく包んだ、薄暗い安堵。室とは、その人の記憶で形作られた体内である――どうして今まで忘れていたのだろう。
忘れていたという事実すら、とうに記憶の水底へ沈んでいたというのに。
「光があるのなら、影が出来る。……こうして物が見えているのが、真っ暗ではないという何よりの証拠。
なら、影は無いのではなくて、見えないだけでしたね」
目に見えるものだけが存在しているのだ、と考えるのは驕りだ。瞳孔を絞る金の右目は、疑いなく“影”を凝視する。
在るものだけが見えるだなんて、そんな都合の良い目は神様だって与えてくれなかった。見ようとしない事は、出来るけれど。
そんな当たり前から、一番目を逸らしていたのは――。
やがて、勢いをつけて昇り始めた朝日が煌々と辺りを照らし、朝を告げる。仮初の目覚めは終わり、この奇妙な違和感も、もうじき消え失せるに違いない。何時ものように、咲良が朝食の準備が出来たと呼びに来てくれるだろう。ありふれた事が、酷く懐かしく、愛しく思えた。
室を照らす陽光が質量を増して届くのに目を細めながら、朔弥はふと、振り返った。まだ陽が届いていない、闇がわだかまった部屋の隅――ぼんやりとした暗がりの中。
出逢ったのは魔などではない。
そこにはずっと、自分自身の影があっただけなのだ。
『 克己の時 』
(何時か、きっと迎えに行く。そう誓いながら、影の消滅をただただ静かに見守った)
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