「ん? どーした、なつめ」
不意に、左之さんが口を開いた。いや、不意に、ではない。彼が口を開いたのは、その人の手を私が凝視していたからである。
『べつに、何でもない』
「……俺になんかついてるか?」
『だから、何でもないですって』
左之さんと2人で飲んできた帰り道、平助も新八さんもいない飲みなんて久しぶりだった。静かすぎて落ち着かないくらい。
「お前、酔ってんのか?」
見当外れもいいところだ。いったいこれまで何人の男を潰してきたと思っているのだろう。少しだけ睨めば、ん? と優しく微笑む左之さん。
と。
ぽつりぽつり、涙のような雨がそこらを歩く人々を一斉に濡らし始めた。
『雨?』
「何ぼけっとしてんだ、屯所まで急ぐぞ」
そのまま走り出す左之さんを眺めながら、何を考えるでもなく突っ立っていると、左之さんが引き返してきたのだろう、少し強めに腕をつかまれた。そして何を言うでもなく走り出す。
『ねえ、左之、さん、』
どのくらい走っただろうか。もう雨も本降りになり、服もほとんど濡れてしまった。途中で雨宿りする場所もなく、仕方なく屯所まで走っているわけなのだが、そろそろ疲れた。息がだいぶ上がっている。
「どうした?」
振り返った左之さんに、少し休もうというつもりだったのだが、そういう前に左之さんが立ち止まった。もちろん私もその場に止まる。
まあ、左之さんのことだから、私に合わせて控えめに走ってくれていたんだろうけどさ。なんだか今日は調子が悪いみたい。
「大丈夫か?」
『……うん、って言いたいけど。ちょっと辛い、かな、』
「顔色だいぶ悪いじゃねーか、」
左之さんの大きな手が、私の額を触った。ひんやりとしていて気持ちがいい。この雨で左之さんも冷えちゃったのかな、なんて考えていたら。
「ほら」
『え、』
「そんな状態じゃ歩くのもつらいだろ、」
『歩ける、』
「このまま、俺もお前も濡れて帰るのか? 俺はともかく、お前は風邪ひくぞ」
『ひかないよ』
「ばか言え、昔から年に何度風邪をひいて俺たちを心配させてたんだ」
しばらく言い合いが続いたが、結局のところ、左之さんに言い含められて背中に体重を預けることとなった。
『重くない?』
「そういうセリフは、ちゃんと飯を食ってから言えよ」
その人がしゃべるたび、背中から振動が伝わってくる。左之さんの体温まで伝わってくるから、あたたかくてすぐに眠くなった。
「土方さん、すまねー」
門限が近かったせいか、鬼の副長が門の近くに立っていた。俺の様子に気づいたのだろう―――俺の、というよりは、俺の背中にいるなつめのことに気がついたのだろう―――、門の外まで迎えに来てくれた。
「どうした、」
「途中で雨に降られて、しかもこいつすごい熱だ、」
「自分の体をもっと大切にしろと何度言ったら気が済むんだ、ったく、」
はあ、と盛大に溜息をつき、眉間にしわを寄せたまま俺の背中からなつめを下したその人。
「お前も着替えてこい、風邪ひくぞ。こいつの面倒は見ておいてやる」
「すまねーな、」
言われるがまま、濡れた服を着替えに自室へと向かった。
なつめのことは心配だったが、相変わらず心配性な土方さんに少し笑いがこぼれた。
長く続いた雨も、夜が明けるころにはやんだようである。鳥のさえずりで目を覚ますと、朝の日の光が襖越しにうかがえた。
「……」
目の前で眠るなつめの額に手をあてる。熱はだいぶ引いている。じきに目を覚ますだろう。
「ったく、心配かけさせやがって、」
『……左之さん、』
そこで、うっすらと瞳があき、まだ少し辛そうな目と視線がぶつかった。任務続きで疲れたな、と頭をなでると、嬉しそうに目を細める。
『左之さんの手、大きいなーって思って』
不意に、なつめがそんなことを言い始める。
昨日からずっと気になってたんですけど、左之さんの手って大きくて暖かくて強くて、すごく落ち着くなーって。昔から頭をなでられると、逆らえないから、なんだか反則みたいな気がする。うーん……
いきなりほめ言葉の羅列で、どう対応していいのやら。
「なつめ?」
『……だから、左之さんの手、好きだよ』
「、」
完全なる不意打ちに、俺はしばし行動を停止する羽目になる。すぐにまた目を閉じて眠ってしまったようだから、今のはきっと寝言なのだろう。まったく、嫌な寝言を言ってくれる。
「ちゃんと飯、食えよ、」
起こさないようにそっと告げ、部屋を出た。朝食準備のためである。まだ彼女の温度の残る右手を握りしめ、心の動揺を抑え。
今日もまた一日が始まる。
この手は君を守るため
back