私を狂わせないで
(夜一×砕蜂+大前田)
初めて、だった。
こんな感情を人に抱いたのは。
「砕蜂」
私の名を呼ぶ貴方の声が、酷く艶っぽかった。
苦しくて何故か居たたまれなくて、何とかもがいて体を遠ざけようとも貴方の手はやはり絶対的で、それ以上は逃げることも叶わなかった。
溺れそうになる思考、貴方に触れられた場所が酷く熱い。
四肢が麻痺したかのような感覚に私は何度も溢れそうになる涙を堪えた。
貴方はその間何度も、私の名を呼んだ。
その時の貴方の表情も、どこか、苦しげで。
けれど口を開こうとすればそれより先に貴方の唇が落ちてきて言葉には出来なかった。
何故、何故…っ――…
貴方はそんなにも、
苦しげな顔を、するのですか。
「――隊長?」
訝しげに、二番隊隊長砕蜂を覗き込んでくるのは彼女の副官だった。
「…何だ」
「この書類、今日中に判お願いします」
そう言うなり、砕蜂の目の前にドサッと書類の束が置かれる。
至極当たり前の事なのか彼女は顔色を変えることなく「分かった」と短く返事をすると再び筆を動かした。
それでも、未だ目の前に立ち竦んだまま何か物言いたげにを彼女をじっと見据える副官――大前田の姿に、砕蜂は溜め息混じりに言葉を投げた。
「まだ、何かあるのか」
目前の書類に目を落としたまま筆を動かす砕蜂の姿に、大前田は困ったように眉を寄せる。
護廷隊の隊長であり隠密機動総司令官の砕蜂が執務室にいることは珍しい。
日頃から常に何かしらの任に付き、護廷と隠密とで走り回っている彼女だからこそ。そのため隊長でしか捌けないような重要書類は必然的にたまっていく。
今回もそのような状況で特に珍しい事でもなかった。
しかし、大前田が眉を寄せる理由はもっと別の事だった。
「隊長…」
「何だ」
今度は隠すことなく不機嫌な声色だった。
けれどそんな事で引き下がれない理由が今はあった。
「…何か、無理してません?」
「………」
沈黙は肯定と取っていいのか、大前田はまた顔を歪めた。
まだ日は高く、先ほど朝の隊首会を済ませたばかりなのにも関わらず、砕蜂は帰ってくるなり珍しくドサッと音を立てて彼女の大きな執務椅子に盛大に腰掛けたのを見て、まず始めに思ったのだ。
今日の彼女は霊圧も態度も乱れに乱れていた。
本人も流石に気付いているだろうに。
暫く沈黙が続いた。
なかなか引き下がらない大前田を一瞥すると砕蜂は酷く落ち着いた声色で口を開いた。
「―…何故、そう思う?」
「…なぜ、って…」
質問を質問で返されて大前田はたじろぐ。
「下らぬことだ、職務に支障はないだろう」
先の問いも無視したどこか投げやりにも聞こえるその台詞に大前田は溜め息が出そうになるのを何とか我慢して肩を竦めた。
代わりに、何度も心の奥で呟かれた言葉が口をついて出た。
「―…隊長は、そうやっていつも、独りでいるつもりなんスか?」
ぴくっと書類に滑らせていた筆がほんの一瞬だけ止まった。
言ってから、しまったと思うがもう遅い。
今日は聞けるとこまで聞いてしまおうかとも思った。
「…用は済んだだろう、職務に戻れ」
けれど彼女の物言いはいつものように抑揚のない静かな声色だった。
目線は書類に向けられたまま、また筆を走らせる。
「隊長」
「戻れと言っている」
先ほどとは違う霊圧の変化に大前田はびくりと体が震えた。
威圧的なそれに体が強ばる。目線はこちらに向けられていないにも関わらず蛇に睨まれた蛙のように身じろぎ一つ出来ないような絶対的な威圧感がそこにはあった。
「立ち位置を見誤るな、と言ったはずだ。貴様は自分の職務だけを全うしろ」
「隊長…っ」
言い放たれたその言葉はいつもより数倍鋭く冷たい何かが含まれていた。
「……っ」
こうなっては最早自分ではどうすることもできない。
そんなとき、彼女の心を動かせるただ1人の人物が頭をよぎるのだ。
全く…、不甲斐ない。
「…すんません、でした」
頭を乱雑にかきむしり自分の場所へと大前田は戻った。
横目で上司の姿を確認するも普段通り無駄のない動きで書類を捌いている。
どこか荒れた霊圧はそのままに。
不意に、ふわりと空気が揺れた。
次に降ってきた声は、大前田が先ほど頭に浮かべたその人だった。
「砕蜂」
「っ!!?」
窓の前で仁王立ちしているのは前隠密機動総司令官、四楓院夜一。
突然の事に砕蜂は固まり、大前田は何とも情けない姿で大袈裟に仰け反っている。
「済まぬ、驚かせたか」
本人はけらけらと笑っていたため大前田も毒気を抜かれへらっと苦笑するほかなかった。
「……っ」
しかしその笑みもすぐに消え、未だ固まる彼女の前へ夜一は音もなく歩み寄った。
「砕蜂」
とっくに気付いているのだろう彼女の変化に、夜一の顔はいつになく真剣だった。
2人の間に何があったかは自分には解らないが、言い知れぬ空気に大前田は自然と体が動いた。
「あ、俺、書類廻してきやす」
砕蜂からの返事はなかったが代わりに夜一が歯を見せて笑ったのを確認して同じように笑みを返すと大前田はその場を去った。
夜一はそれを見送った後、目の前の少女へと視線を戻した。
「………」
いつもならば嬉しそうに声を弾ませ自分の名を呼ぶ彼女。
だがその視線は伏せられたまま動かず、何かに耐えるように拳を固く握っている彼女に夜一は酷く悲しげな笑みを浮かべた。
「儂が、許せぬか…、砕蜂」
「……っ」
言葉を飲み込むのが聞こえた。
自分はまたこの少女に我慢をさせているのかと、また立場の性にしたくなった。
悪いのは、紛れもなく、自分なのだが。
「…よる、いち…さまは」
酷く小さな声、震える手を握りしめ絞り出すように言葉を吐く砕蜂に、夜一は静かに続けられる言葉を待った。
「……悪く、ありません…っ」
「…っ!!」
顔を上げ、彼女は――笑っていた。
けれどその顔は、今にも泣き出しそうな、見ているこちらが苦しくなりそうな、そんな笑顔だった。
「……砕、蜂」
「…ですから、夜一様は…、」
続けられた言葉は夜一の思考を罪悪感と痛みで埋め尽くすに十分なものだった。
「笑って、いて下さい」
息が、詰まった。
この娘は、何処までも自分の身の方を最優先する。
例え己がどんな状況でも、壊れそうな、ボロボロの心を持っていても。
夜一は、笑えなかった。
応えてやりたい、そう思っても顔は強張り上手く笑顔を作れないでいた。
益々泥沼にハマっていくようで、唇を噛み締めた。
目の前の少女はいつも、泣きそうな顔をして笑う。
夜一が何度も、この手で幸せにしてやりたいと願っても、それは自分だけのエゴなのか思い上がりでしかないのか。
いつか、この少女を自分の手で狂わせてしまう。
そんな気さえして。
自分たちの行く末を案じる者はいても止められるものなど誰もいない、ならばいっそのこと壊れてしまえば良いと、邪な自分が笑う。
違う、自分はそんなことは望んではいない。
彼女を笑顔に出来れば、と。
それはどちらにも言えることなのだと、夜一は今、気付いてしまった。
時間は悪意を持ち、日に日に苦しさは増した。
けれど、どうしようもできない。
一線を越えてしまった自分たちはもう、後戻り出来ないのだと解ったときも、それは変わらなかった。
痛みの増す心を無視して、自分たちは何処まで行くのだろう。
何度目かの、答えのでない疑問はいつまでも心から、消えることはなかった。
END.
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関係をもってしまった2人のその後。
どこかで続き物書くかも。