微睡みの


『深淵に臨むが如し』 砕蜂side






真っ白い世界にいた。

何もない空間。
何処までも果てしなく広がっているそこは、何処へ繋がっているのかも分からない。
働かない五感に舌打ちをしようともそんな感覚さえ今はどこかへ行ってしまっているようだ。

夢なのだと気付いたのは、そんな虚無感に慣れた頃だった。

不安定な足元に視線を落とし両手を握る。
白だけで彩られた世界に不自然なほどくっきりと存在する黒い自分。
酷く場違いな気がしてそのまま目を瞑った。


訪れたのは黒い世界。


何もない、黒い世界。
同じように漠然とした世界なのに、やはりこちらの方が落ち着く。
目を開けるのも嫌で、そのまま足を進めた。

何処に向かっているのかも分からない。
何処へ向かわなければいけないのかも分からない。
ただ前へ進まなければと、そう思った。


どれほど進んだのだろう。

ぴちゃ、と暖かい感触が足の裏から伝わった。
戻ってきた五感に少し安心する。
けれどどこか覚えのある感覚、沸き上がってきたのは突然の痛み。


『――ッ』


頭を抑えてうずくまる。
目を開けたにも関わらずそこは先ほどと変わらない黒一色の世界で。
足元の感覚も訳の分からない頭痛もそのまま。
未だ生暖かいそれに手をやっても暗闇の性で全く見えない。

仕方がないので立ち上がりまた歩を進めた。ふらつく体を無視してひたすら歩いた。

足元の感覚は変わらない。
ぴちゃぴちゃと、音を立てながら進んだ。


ふと錆び付いた匂いが鼻についた。
先ほどまで無かった感覚がまた1つ戻ってきた。


知っている、自分は――知っている。

体で覚えてきたその匂いの正体。
目を閉じずともそこにある黒一色の世界で、見えないそれは今自分の足元に広がっているのか。

今更何とも思わない。


ふと、誰かに名前を呼ばれた気がした。


はっきりと聞こえないその声。
目を閉じ、逃すまいと意識を集中させた。


頭の中で響き渡るように聞こえるそれに、懐かしさを感じる。



『――…』


よく聞こえない。


『――…り…』


誰だ。


『――…ぉ…り…』


誰なんだ。


『――…梢綾…』



突然耳元で聞こえたそれに驚いて目を開ける。

世界は白に戻っていた。


ただ違うのは、そこ一面に広がっていた――どす黒い赤。
白だけの世界に盛大に散りばめられた赤に、息をのんだ。


気持ちの悪い感覚に視線を落とすと膝までぐっしょりと赤く染まった自分の足。


自分はこんな道を歩いてきたのか。

両手を見れば足と同様、べっとりと付着した赤。
高鳴る胸が酷く鬱陶しい。

今更どうした、
分かっていた事だろう。


小刻みに震え始めた自分の両手をギュッと握り締め、唇を噛んだ。
口の中に広がる鉄の味にまたドクンと胸が音を立てる。


感じるな、感じるな。

何も、感じるな。


赤と白、酷く不釣り合いなそれに目をキツく閉じる。

心の中で黒を求めた。

深呼吸をして、また目を開く。


黒はやってこなかった。

先ほどと変わらない赤と白の世界に、何故か無性に虚しくなった。


『梢綾』


また、同じ声。

辺りを見回しても赤と白だけで何もない。

けれど確かに聞こえるその声、頭の中だけではなくなったその感覚。


声のする方に、走った。

感じるのは懐かしさだけ。
後はよく分からなかった。


重い、ふらつく。
思うように動かない体に何度も足がもつれ倒れた。
そのたびに体に付着する赤。
地面は未だ生温い。


『――…砕蜂』


突然、声色が変わった。


声の主は変わらない。
どこか咎めるようなその声色に、思わず足が止まる。


『………』


それきり聞こえなくなったその声に、ただ立ち竦むことしか出来なくなった。


押し寄せてくる不安、そして孤独。


何処へ向かえば良いのか、前へ進む本能に似たそれは何処へいったのか立ち竦んで動かない自分の血に濡れた足。




『砕蜂』


『!』




聞こえた。
ハッと顔を上げる。

先ほどと違う声。
自分を呼ぶ、どこまでも暖かく優しげな声色。

知っている、この声なら。



『…砕蜂』


『……っ…』



返事をしようにも声がでない。
渇ききった喉に腹が立ち、思いっ切り唇を噛んだ。潤いを求めたはずなのに一向に変化はなく、それどころか口に広がる錆び付いたその味に感じたのは悔しさと不快感だけだった。



夜一様――…



姿の見えない相手にも関わらず口だけを懸命に動かす。



気付けば世界はいつの間にか、黒に戻っていた。


もう声は聞こえない。


何の気配もなくなったそこは、不思議と不安をぬぐい取ってくれた。


もう何も感じない。


錆び付いて取れない赤いそれも、口の中に広がる不快感も、訳の分からない不安感も。


崩れる足場にも恐怖はなかった。

前しか向かうことを知らなかった足が下へ下へと堕ちていく。
ただ身を任せるその感覚が、何故だか心地よい。


何処までも、先は真っ暗だった。












視界がはっきりとしてくる。
目に入ったのは見慣れた白い天井。


「……?」


窓から差し込む陽射しが少し眩しかった。
額に手を当て、息を吐く。



夢を、見ていた気がする。

どんな夢かは覚えていない。



微かに痛む頭を抑え、ゆっくりと上体を起こした。
何故自分がこんな所で眠っていたのか全く記憶に無い。
柔らかな布団の感覚、冷静になって見ればそこは仮眠室のようだった。



「何、だったんだ……」



やはり思い出せない。


無意識の内に両手を確認する。

何だろう、何か…


すっきりしない感覚に砕蜂は深いため息をついた。


耳に残る違和感、だるい足。
心に穴が空いているかのような、酷く空虚な――そんな気分だった。



「仕事に、戻らなくては…」



思い出したように呟き、重い体を完全に起こす。



耳に残る誰かの声に、酷く寂しくなった。







END.


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夢の世界は酷く曖昧、にも関わらず気付かない内に本音が垣間見える。






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