淵に臨むが如し

(大前田+砕蜂)



いつまでも私の中で疼き痛む、
貴方が残していった傷跡。


何故ですか、何故ですか何故――…


忘れてはならない、
あの痛みを忘れるなと、
心の奥で誰かが叫んだ。

それは一種の防衛本能。










「――隊長ォー、この書類判抜けてたんスけどー…て、あァ?」



二番隊執務室、大前田希千代は隊長である砕蜂に渡された書類を他隊に持っていく際、一枚だけ判が押されていないものがあったため他を配り終えた今、彼女に確認を貰うよう急いで戻ってきたのだった。

あれから差ほど時間も経っていないため、ノックも無しに扉を開けた。


「…隊長?」


が、いつも砕蜂が座っている大きな椅子は机から不自然に横に離れているだけで、そこに彼女の姿はなかった。

大前田は辺りを見回す。
不思議だったのは姿は見えないだけで微かだが気配はある、ということだった。


「!」


机に近付いた時、見慣れた黒髪が見えた。大前田は眉を顰め机の奥に目を向ける。


「―…隊長っ!?」


小柄な体躯のため机の影で見えなかったがそこにいたのは確かに砕蜂だった。
しかしその小さな体は棚に預けられており、どこかぐったりしている。


「ちょ、ちょっと大丈夫スか隊長っ……って、……あ」


慌てて近付いてみたが聞こえたのは穏やかな呼吸。
寝ているのだ、と少しの間の後理解した。


見れば手は書類を握り締めたままで、場所と状態からして明らかに意図的に仮眠を取ろうとしたわけではないことは解る。
解るのだが―――


「…………」


珍しい、と思った。

それは非常に。

いつもの彼女なら職務中に居眠りなど皆無であり、するにしても副官である大前田に一言いつも告げてからであるため今のような状態は初めてだ。

しかも誰より神経質であり気配に人一倍敏感な砕蜂が大前田が帰ってきたにも関わらずぴくりとも動かないことがやはり信じられなかった。

とりあえず大前田はこのまま冷たい床に放置するのもどうかと思い暫く悩んだ結果、起こすことにした。


「たーいちょ、起きて下さいって、仮眠室なら開いてまスんで寝るならそっちで…」


たいちょー、と肩を揺すって呼びかけても起きる気配のない己の上官に大前田は困り果てた。

本当に、珍しい。

具合が悪いという訳でもなく只の疲れなのか。
そういえば昨日は遅くまで刑軍の任務があったな、と思い付いた。だが彼女が夜の任務に出向くことは隠密機動として至極当たり前のことだ。
ということはやはり日頃からの疲れなのか。

心配になって覗き込めばどこかいつもより顔色が悪いような気さえした。

昔から部下との馴れ合いも人に頼ることも良しとしない砕蜂は自分にも他人にも厳しい。真面目な性格も災いしてか休みが休みとして機能しないことも多くあった気がする。
限界まで体を駆使する上司の姿を後ろから見続けてもう何年になるのか。
彼女が何故そこまでして自分を追い詰めるような生き方をするのか、大前田には全く解らなかった。
そこまで他人が立ち入ることも踏み込ませることも、彼女は決して例え副官であってもさせようとしなかったのだ。

けれど最近になって何となくだが解ってきたような気がする。
あの方との再会を果たしてからだ。前のような、鈍く光る刃のように研ぎ澄まされた心、触れるもの全てを切り刻む張り巡らせた糸のような霊圧。根本的に変わりはしなかったが、しかし時折柔らかく穏やかな光を発するようになったと思う。
それをさせたのは自分ではなく、彼女が敬愛するあの方。


大前田は静かにため息をついた。


自分が何年かけても溶かすことのできなかった何かを、あの方は一瞬でしかもいとも簡単にやってのけた。
それが少し、大前田には羨ましかった。
彼女の副官であるのに、一番近くで死線を共にする間柄であるのに何一つ理解できなかった自分の不甲斐なさ。
彼女がそれを許さなかったという事実もあるが、それでも大前田は傍らでどこか危なげに歩みを進める彼女を心のどこかで助けたかったのだ。


先ほどよりも幾分落ち着いて、大前田は砕蜂を見た。

いつだって隙を見せない彼女の寝顔など見るのは初めてのことだろうと思う。

いつものような鋭く光る切れ長の目は今は閉じられており、思いの外長い睫と自分とは正反対な白い肌にしっかりと切りそろえられた前髪。横にはねる髪も今や素直に可愛らしいと思った。

黙っていれば美人なのにな、と誰かが言っていた気がする。

窓から差し込む光は淡く暖かい太陽の色。
それが砕蜂の肌に当たり、より一層白く輝かせる。
まるで人形のように綺麗に彩られたそれに大前田は暫し魅入ってしまった。


「……っ…」

「!」


綺麗だと思っていた顔が僅かに歪み、小さな声が漏れた。
慌てて大前田はいつの間にか近くなっていた彼女との距離をおこうとしたその時だった。


「……ぃ、……」

「…っ」

「…い、ゃ、…だ」


発せられた言葉は小さく、聞き取り辛かったが大前田の耳には確かに聞こえた。


「…さ、ま」


彼女の口から発せられた言葉はやはりあの方の名。
だがいつものように誇らしげに、弾むような音は全く無く、どこか悲哀に満ちた響きであったため、大前田は自分でも気付かぬ内に彼女の顔を凝視してしまう。


――いかないで


続けて唇が動いた時、大前田の胸に痛みに似た何かが駆け抜けた。

はっきりとは聞こえなかった。
けれど砕蜂の唇から容易に読み解くことができたそれはいつもの彼女なら決して言うことはない、本音と呼べるものか。


独りにしないで、と。


今彼女の脳裏に蘇るのはあの時の事か。

大前田はその時のことはよく知らない。
知っているのは、前二番隊隊長兼隠密機動総司令官であり刑軍軍団長は男のために逃亡扶助という不名誉な罪を犯し消えたということ、その後がまとしてあの方の右腕として最も近い直属の護衛軍という地位にいた砕蜂が選ばれたということ。
しかし、如何に彼女が刑軍の中で生え抜きであったにしても前軍団長の不名誉な失踪に隠密機動並びに刑軍の信用は地に堕ちていたのも事実であったため立て直すのは相当に困難だったと聞く。

そんな状況下での就任は実力の有無に関わらず厳しいものだっただろう。
自分の知らないところで、この人はこの小さな背に一体どれだけの物を背負って来たのだろう。

悲しみ、怒り、戸惑い憎しみあらゆる感情を心に隠し前だけ見据えて、何を求めていたのだろう。

いや、求めてなどいなかったのだ。

求めてはいない。
だが想いがないわけではない。
彼女は一見無感情に見えるが、一定を越えるとまるで壊れた時計の用に針が震え不安定になる。方向を見失い、行き場のなくなった針はその場で砕け欠片は自身を傷付ける。深く暗い闇の底で一人うずくまる。
その後、彼女はどうなるのか。
それでも誰かに手を差し伸べることはしないのだろうか。


孤独を求めながら孤独を恐れている。


切り捨ててきたものたちが今になって、彼女の胸の内を容赦なく痛めつけるのだ。
与えられる暖かな光と孤独な闇の狭間を行き来しながら、心の矛盾と戦い続けている。終わりの見えない戦い。


夢の世界でも苦しげに呻く彼女を、どうすれば助けられる?



「…面倒くせェ」


大前田はがしがしと乱暴に頭を掻いた。

どんな状況でも彼女はやはり、孤独であることを自ら進んで望むだろう。

自分はそれを見ていることしか出来ないのだろうか。

自分との間にある高く見えない壁を取り払って、その手を取ることは出来ないのだろうか。


何度目かの疑問は答えなど見つかるはずもなく、大前田の中で暗い靄を生んだ。





あの後、砕蜂を仮眠室まで運び綺麗に整えられた布団の上に彼女を寝かせた。
いつもなら触れようものなら蹴りやら拳なり飛んでくるため、仮眠室までのそう遠くない道のりを内心ビクつきながら歩いていたがその心配も無用だったようだ。







「あ、隊長起きたんスか」


あれから半刻も経たない内に砕蜂は戻ってきた。束になった書類を整えながら大前田は彼女に目をやった。


「私は…」

「隊長、床で寝てたんスよ、ここ帰ってきたと思ったら机の奥でぐったりしてて初めビビったんスから」

「そう、だったのか…」


記憶にないのか、彼女は僅かに眉を寄せ大前田の言葉に酷く曖昧な相槌を打つ。
暫く記憶を辿っていたがやはり駄目だったようで彼女は諦めたように机に戻った。


「もう……大丈夫なんスか?」

「何がだ」

「……、自覚…ないんスか?」

「……?」


ゆっくりと振り返った砕蜂の顔は先ほどと変わりなく、何について聞かれているのかも分からない様子できょとんとしていた。


「…ただの睡眠不足だ、何も差ほど気にすることではない」

「……っ」

「しかし、職務中にしかも記憶にない居眠りとは私も堕ちたものだな」


気を引き締めねば、とそう告げた砕蜂は最早いつもの無表情に戻っており大前田はそれ以上は聞けなかった。


「……どうした」


どこか複雑な表情でこちらを見つめたまま固まっている大前田の姿にさすがの砕蜂も不思議に思って声をかける。

さっきの弱々しい姿はどこにいったのかケロッとしている砕蜂の姿に大前田は、あぁ、と顔をしかめ理解した。

この人はこういう人なのだと、自身の痛みでさえも気付かぬ内に押さえ込み無かったことにしてしまう。
消えるわけもないその痛みを無理やり押さえ込んで、いつ噴き出すかもしれぬ恐怖も解らないまま。


「…何でも、ないっス」


自分はこの人の隣で何ができるだろう。


今はまだ、答えは見つからない。
時を経て彼女の氷が少しずつ溶けていったなら、自分はその心に触れることはできるのだろうか。
頑なに人を拒絶してきたその心に、触れることを許してくれるのだろうか。


独りじゃないんスよ、隊長は。

アンタを想ってる人間は、
もっといるんスよ。


言葉にできなかったそれは大前田の心から離れることはなかった。

きっと、もっと。

確信めいたそれは部下であり彼女の上司であり、彼女が敬愛するあの方を見て想ったこと。
もちろん、自分だってその一人なのだ。

いつか自分の口から伝えられる日は来るだろうか。



裏切りと偽りにまみれた世界で彼女が覚えた酷く残酷な防衛本能。


今はまだ解らない、心の行方。










END.


************

中途半端な出来だ。
というか眠気でぶっ倒れるとか…滅多にないよな。
タイトルは非常に危険な立場にいることの例え、らしいです。

続き物、というか砕蜂サイドでまた更新予定。







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