心時雨る (大前田+砕蜂)
今日は酷く気分が重かった。
それは日頃の仕事疲れからなのかはたまた別の何かなのか砕蜂には解らなかった。
二番隊隊長と隠密機動総司令官を兼任する砕蜂は他の隊長たちよりも仕事が多いため必然的に休みは少ないのだ。
その日の仕事が終わり、広い隊舎の奥に備え付けられている庭園に出て月を見上げる。
辺りは静まり返っており、頬に当たる風は夜特有の冷たさを持っていて少し肌寒かった。
明日は久しぶりの休暇だった。
「………」
目を瞑り深呼吸する。
久しぶりの休みだというのに心が落ち着かない。言いようのない不安と痛みを伴った何かに胸がズキズキと疼く。
思えばここ最近はこういった気分に陥ることが増えてきているのかもしれない。
見えないところでじわじわと、広がっていく闇色の何か。
代々暗殺を生業としてきた蜂家。この家に生まれれば強くなければ生きては行けない。弱ければ死に、強ければ生き、逃げようものなら否応無しに殺される。
生きるために人を殺すなど、何と罪深い種族なのか。
幾度となく頭の隅にいて離れなかったその想いは簡単には消えなかった。
だがやはり、暗殺者として生きているうちに感情という感情は消えて行き、いくつもの任務をこなしているうちに段々と薄れていくそれをその内気にすることもなくなった。
共に鍛錬し、切磋琢磨してきた同胞を今日殺さなくてはならないかもしれない、そんな環境の中に長年身を置いている性か他人に情を感じることも信じることも、出来なくなった。
目の前の任務を達成できなければ、死。
生きるか死ぬか、その二つしか想うことはなかった。
だが今は。
「……ッ」
無意識のうちに唇を噛み締め、拳が震えた。
なぜこんなにも苦しいのか。
それは敬愛する己の主と再会してから蘇ってきた自分の”感情”がそうさせるのか。
長年情を殺して生きてきた砕蜂には突然帰ってきた主に容赦なく揺り動かされる己のその感情に未だ慣れないのだ。
主を責めているのではない。責めたくはない。
けれどこの苦しみから逃れるすべを自分は知らない。
闇に紛れ、生きてきた自分たちなのに、なぜ今更になって―――
こんなにも月が、光が恋しいのか。
「―――隊長?」
「!」
思考は突然打ち切られた。
「何してんスか、こんなとこで」
「…貴様には、関係のないことだ」
先ほどまで深く思考に囚われていた性で自隊の副官の霊圧にさえ気付けなかったことが少し悔しかった。
砕蜂は大前田の顔を見ずにそっけなく答えた。
「………」
「………」
不思議な沈黙がその場を流れる。
いつもならここで大前田が「そりゃないっスよッ!」とかなんとか言って噛み付いてくるのに今日はそれがない。
不思議に思い、自分より遥かに体躯の大きな大前田を見上げる。
驚いたのは砕蜂だった。
見上げた大前田の顔は今までにないほど真剣で、何処か――悲哀に満ちていて。
僅かに眉を顰め砕蜂は大前田を見上げて言う。
「…なんだ、その腑抜けた顔は、」
「……隊長も人のこと言えねぇっスよ」
「私は貴様のように腫れぼったい顔はしていない」
「いやそりゃわかりますけど」
顔を引きつらせる大前田など無視して言われた言葉の意味を考えてみる。
いったいこいつは何を言い出すのか。そんなにも自分はおかしな顔をしているだろうか。
「じゃなくて、そんな痛々しい顔してるからっスよ…」
「誰がだ」
「隊長がっ!」
「!」
予想外だった。
言われて初めて自分の感情が表に出ていることに気付いた。今まで感情など己の心の内に押さえ込んでいれば何ともなかった。
ましてや顔に出るなんてことは皆無に等しかったのだから。
「何を、言っているのだ、貴様は」
苦し紛れに視線をそらして言葉を紡いでも今はどこか説得力に欠ける。自分でも解っていた。
「え、えぇとなんか、最近の隊長、すっげェ危なっかしいっつーか、なんというか…」
「何が言いたい」
「えと、まぁ」
「はっきり言え」
こちらを見ずに繰り出される男のような物言いに大前田は頭をかき、少し苦笑して答える。
「俺じゃ支えられねっスか」
「!」
思わず目を見開き大前田を振り返った。
「隊長が、何にそんな苦しんでるのか知らねっスけど、」
「……」
「副官である俺に、ちったぁ話してくれたっていいんスよ…」
此方を見下ろし、いつになく真剣に言葉をかけてくる彼に、砕蜂は何も言えなかった。
いつもなら下らぬと適当に殴って終わらせられるというのに今の自分はそれさえできないのかと。
それさえできないほどに、砕蜂の思考は泥のように暗く深く沈んだ何かに囚われていた。
大前田から向けられる視線は確かに自分を想ってのものだった。
「………」
「…、ぬ…」
「……」
「くだ、らぬ……」
いつものように言ったつもりだった。しかしそれとは裏腹に、胸の奥から沸き上がってくる何かのお陰で言葉は詰まり、肩は震え、拳は爪が手のひらにキツく食い込んでいた。
「隊長…」
大前田は何を言っていいのか解らなかった。
ただその場でキツく小さな拳を握りしめ、何かに必死に耐えている砕蜂の後ろ姿をじっと見つめた。
今ならば、許されるだろうか。
浮かんだ疑問よりも先にそれは動いてしまった。
「…!?」
肩に感じたその手は少し緊張していて、大きかった。
驚き言葉を紡ぐ暇もなくその手は肩から砕蜂の背中へとまわり、抱きしめられた。
「大前、田、なにを…」
していると言いかけて言葉が詰まった。
砕蜂を抱きしめているのは紛れもなく自分の部下で、大前田だ。だが、今までに彼が砕蜂に触れてくることなど安堵なかった。
いや、触れられなかったというべきか。他人に触られることを酷く好まない砕蜂は大抵は触れられる前に避けるなり殴るなり、あわよくば刀を向けるなりして乱暴に払い除けてきたのだから。
それを副官である大前田は一番近くで見てきて何も言わずとも彼女のそれを誰よりも理解していたのだ。
だが先ほどまでの彼の言葉と顔を思い出し、無碍にもできず砕蜂は僅かに身じろぎする事しか出来なかった。
次いで続けられた彼の言葉に、体は更に固まった。
「俺は、隊長が苦しんでるとこも、傷つくとこも、」
抱きしめる手に力がこもる。
「見たく、ねぇんスよ…」
「…ッ!!」
なぜこの副官は自分より何倍も大きな体で、自分より何倍も辛い顔をしているのか。
砕蜂には解らなかった。
邪険に払い除けることができないほど、思い詰めている己の上司に大前田は尚も腕に力を込めた。
「……ッ、」
「…?」
それとは逆に、ほんの僅かに砕蜂の腕に力が込められた。
同時に大前田の胸は酷くゆっくりと押され、その体は離された。
いつも自分を遠慮なしに殴ってくる砕蜂の腕とは全く別の、押された腕の力のなさに大前田は戸惑った。
これ以上は駄目だ、とでも言うような。
「たい」
「…駄目、なのだ」
「!」
「今の、私では……」
それは大前田が彼女の口から初めて聞いた、弱音。
体は離されたが未だ二人の距離は近かった。
だからこそ、よく解る。
砕蜂の肩は先ほどよりも小さかったが確かに、まだ、ほんの微かに震えていた。
「感情など、いらぬというのに…」
「隊長……」
こんなにも弱気な、自隊の隊長を大前田は未だかつて見たことがなかった。
「…済まぬ、忘れてくれ」
くるりと、視線を伏せたまま背を向けた砕蜂にかける言葉も見つけられないまま、大前田は立ち尽くすしかなかった。
彼女は静かに、いつものように音もなく廊下の向こうに消えて行った。
自分たちから、抜け出すことはできない。
否、抜け出すことは許されない。
だから、どうか―――…
心に過ったその言葉は口に出すことはできなかった。
そう願うことさえも許されないだろうと。
一人で歩くには広すぎる隊舎の廊下は、酷く息苦しかった。
END.
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大前田、頑張った(笑)
どうしようもなく、落ち込む事ってあるよね。