2話 これが研究室の今の日常で
「酒井さ〜ぁん……」

東都大学工学部応用化学科博士課程3年、酒井知彦は今日もいつも通り研究室で実験に勤しむ。
天秤の中のフラスコに適当な量の試薬を入れると、天秤はほぼ目的の値を示す。
研究生活6年目にもなれば、これもいつものことだ。

「あぁぁ〜…。酒井さ〜ぁん、聞いてるんすかぁ〜?」

この、気の抜ける声で呼ばれるのも、いつものことだ。

「なんだよ、清川。聞いてるから。」

秤量を終えたフラスコを天秤から取り出して、自分の実験スペースに置く。
そこから見えた清川は、いつも通りうつ伏せで横になって休憩スペースのソファを占拠していた。

「酒井さ〜ぁん…、彼女欲しいっす…。」
「またそれかよ、清川。昨日も言ってただろ。」

酒井は実験台に向かって実験操作を続けつつ、清川の言葉に適当に返す。
清川祐磨。修士課程2年、酒井の3つ下の後輩。
清川とはいつもこんな感じだ。…というか、清川がいつもこんな感じだ。

「酒井さ〜ぁん、誰か紹介してくださいよぉ〜」
「誰かって、俺のここ数年の人間関係なんてこの研究室内くらいなんだけど。」

博士課程にもなれば、研究して家帰って寝るの繰り返しみたいな毎日だ。
だから交友があるのなんて研究室の人か、応用化学科の同期かくらいだ。
修士課程時代には多かった同期も、博士課程に入ってからずいぶん減ったけど。

「え〜…、だれかいないんすかぁ〜」
「誰かって言ってもなぁ…」

フラスコに熱をかけて反応を開始しながら清川に答える。
それからそのフラスコを実験台に放置して、ソファで伸びる清川に近づく。
あの反応は緩やかで時間がかかるから、しばらく手が空く。

「俺が紹介すると、前みたいに架空のメル友になるけど。」

それでもいいなら紹介するけど。
酒井がそう笑って言うと、清川は、わぁぁぁ……!とソファに顔をうずめる。

「嫌っすよ!あれ結局、永見じゃないっすか!!」
「ははは、最初のころはな。後半は俺がほとんどだったよ。」

酒井はソファの近くの丸椅子に座ると、コーヒーメーカーに出来ていたコーヒーを使い込んだコップに注ぐ。

架空のメル友、あかりちゃん。
あれはもう2年前のこと、今となっては懐かしい笑い話だ。

「ってかなんで、名前があかりちゃんなんすか〜」

清川はソファで横になったまま顔を上げて言う。

「うちの姉貴と同じ名前なんすよ〜」
「あー、俺の兄貴の元カノの名前だよ、あかりって。」
「まじっすか。うちの姉貴と同じ名前とか、酒井さんの兄貴、趣味悪いっすね!」
「失礼だな!あかりさん良い人だよ!」

清川の言葉に反論しながら、酒井はコーヒーを口にする。

「でも元ってことは先輩の兄貴と別れたんすよね!?俺の仲間じゃないっすか。」
「まぁ、もうあかりさんは別の人と結婚してるからな〜」

酒井がそう呟くと、研究室のドアが開いた。
そこからアイスの実を片手にした永見が現れた。

「永見、清川に誰が紹介してやってよ」
「あかりちゃんならいいっすよ」

研究室に入ってきた永見に声をかけると、永見はメガネに光を反射させて答えた。
その言葉に、清川はまた、わぁぁぁ、と声を上げる。

「清川、いつも彼女欲しいって言ってるけど、じゃあ、どんな子が良い訳?」

永見は清川の占有するソファの前に立って清川に聞く。
確かに、どんな子がいいとか清川はいつも言っていない。

「理系キモイって言わない、素直で優しくてかわいい癒し系の大和撫子」
「……いないだろ、そんな理想的な女の子」

清川の回答に酒井は呆れてつぶやく。
そんな理想を詰め込んだかのような人、実在しないだろ。

永見は最後のアイスの実を食べ終わると、酒井を見て言った。

「前にここに来てた宮野さんの友達とか、わりと近いんじゃないっすか?」
「あ、藤城さん?」

藤城さん。確か下の名前は雪乃だったっけ。
学部3年でありながらここで研究している宮野さんの友達。
確かに、素直で優しいし、黒髪のロングヘアーは大和撫子的な雰囲気があるかもしれない。
藤城さんは文学部だけど、何度かここに来たこともあるし、理系キモイとか言わないだろう。

酒井は、研究室の中で黙々と実験をしている彼女を見る。
宮野志保。応用化学科3年の学部生。
研究能力に優れているからと、教授が連れてきた女の子。
学部生ながらなぜこんなに研究能力に優れてるかも含めて、ミステリアスな子。

酒井は丸椅子から立ち上がり、彼女の方へと足を進める。

「宮野さん、清川にさ、藤城さんのこと紹介してやってもらえないかな?」
「だめよ。」

酒井が頼むと彼女はクールに即答で断った。
まぁ、特に親しい訳でもない相手の頼みなら断るわな、と酒井は思う。
しかし、続く彼女の言葉に、断られた理由はそれだけではないと知ることになる。

「雪乃、留学先で彼氏と同棲してるわよ。」

え……?
小さくそう呟いた酒井の声は、清川の絶叫にかき消された。
そして、その絶叫に驚いてか、彼女は手にしていたピルケースを落として中のカプセル剤を撒き散らしてしまう。

「ああ、宮野さん、ごめん!」

彼女は焦った様子でカプセル剤を拾い集める。
酒井も、床に飛び散った赤と白のカプセル剤を拾う。
拾いながら、先程聞いたことを考える。

藤城さん、最近見ないと思ったら留学してたのか。
そして、留学先で彼氏ができて、その上、同棲までしていると。

「はい、宮野さん。これで全部かな?」

目の届く範囲のカプセル剤をすべて拾い、ピルケースに戻す。
女性のプライベートだからな、と酒井は何の薬かはあえて聞かなかった。

「酒井さ〜ぁん、彼女ほしいっす〜」
「あー、清川、それはわかったから。」

清川に呼ばれて、ソファの方へと戻った酒井は知らない。
ピルケースに戻ったカプセル剤の数を彼女が何度も必死に数え直していたことを。


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