1話 2年前のハプニング
これは2年前、現在は博士課程3年の酒井知彦がまだ博士課程1年だったころの話。
彼の今年で6年目になる長い研究室生活の中で一番の事件があった年である。
しかし、この事件でさえ現在では「あかりちゃん事件」として語り継がれる笑い話だ。

ある日の夜22時、理系の研究室というものはこんな時間でも研究のために在室している者が多くいる。
そして、こんな時間にもなれば雑談混じりに実験をしたりする。

「酒井さん、今年の4年ってどうなんすか?」

学部4年生の永見が、酒井にそう尋ねた。
意味合いとしては、3つ先輩にあたる博士課程1年の酒井から見た同期の評価の確認だった。

「今年の4年かぁ、永見も桜井も卒業研究の進捗状況に問題はないけど、最近の清川がちょっとアレだよなぁ」

酒井は今日はもう帰宅している清川のことを考えて、表情を歪めた。

「やっぱ酒井さんもそう思いますか?」
「ああ、うん。清川、性格はぬけてるけど、普通のときは研究はむしろできるやつだなと思ってたんだけど」
「そうなんすよねー」

永見は酒井の言葉に同意を返す。
清川は性格はぬけているが研究はできるヤツだった。
あるときを境に、研究が手につかなくなるまでは。

「清川、最近つねにうなだれてるけど、あれ、どうしたの?」

酒井が永見に尋ねると、永見は同期の桜井を見た。
どうやらこの件には桜井が詳しいらしい。

「清川、彼女いない歴イコール年齢で、彼女いるやつを妬んでるタイプなんですけど」
「ああ、そんな感じあるよな、清川」

酒井は桜井の話をあいずちを入れながら聞く。
桜井は明るくてコミュニケーション力が高いせいか、意外な情報をもっていたりする。

「隣の研究室に、同じタイプの清川の友達がいたんですけど、そいつに彼女できちゃったんですよ」

酒井はその言葉に一瞬固まったあと、深いため息をついた。

「そういう感じか……」

理由はめちゃくちゃくだらない。
ただし、事態は深刻だった。
季節は冬。学部4年生たちは卒業論文を書かなければならない。
しかし、清川の日々のうなだれようはそれに支障をきたすレベルだ。

「なんか清川を復活させる方法ってないもんなの?」
「さぁ?清川にも彼女できるしかないんじゃないっすか?」

酒井の疑問に永見が答えた。
清川に彼女ができる、しかし、清川は彼女いない歴イコール年齢の男、そう簡単には彼女なんてできないだろう。

「酒井さんが清川と付き合えばよくないっすか?」
「西尾、なんだよそれ」

酒井と永見、桜井が頭を悩ませていると西尾が滅茶苦茶なことを言う。
西尾は酒井の1つ下、修士課程2年だが、やたらに酒井のことをいじってくる。

「酒井さん、彼女いないですよね。だからちょうどいいかなと思って」
「何もちょうどよくないだろ。どっちか性別が逆じゃないと」
「じゃあ酒井さん女になってくださいよ」
「どういうことだよ」

西尾の冗談に酒井は返事を返す。
そんなやりとりをしていると、桜井が、あ!と声を上げた。

「いっそそれ良くないですか?誰かが女の子のフリして清川にメールするの」

めちゃくちゃな発想だ。しかし清川もめちゃくちゃだ。
むしろ、逆に、いい案なのかもしれない。

「それなら、俺、使ってない携帯ありますよ」

そう言って永見が二つ折りの携帯電話を取り出した。

「彼女との電話用にガラケーとスマホの2台持ちしてたんですけど、彼女がスマホに変えたんで、もうガラケーの方使わないんすよ」

永見が二つ折りの携帯電話が不要になった経緯を話す。
永見に彼女がいるのは周知の事実だったので、誰もそこにはつっこまなかった。
それよりも携帯電話の登場で、清川に架空の彼女を与える作戦が現実的になったことのほうがこの場では問題だった。

「で、どうします?メールするなら、俺、打ちますけど」

永見のメガネに蛍光灯の光が反射した。
永見、淡々としているがこれは結構乗り気だ。

「永見、頼む。」

酒井は永見に、清川に架空の女の子としてメールすることを依頼した。
永見は、了解っす、と言ってメールを打ち始める。

そうと決まったら深夜の男たちの悪ノリはすごかった。
その場のみんなで、清川に送る文面を考えた。

「この女の子の名前ってどうします?」
「あれにしましょう!あかりちゃんでしたっけ?酒井さんの兄貴の元カノ!」

永見の疑問に、悪ノリした桜井が言った。
酒井はその言葉に飲んでいたコーヒーをむせた。

「え、なんすかそれ!」

桜井の情報に西尾が食いついた。

「酒井さんって兄貴いたんすね」
「……いたよ」
「ってか酒井さんの兄貴なのに彼女いたんすね!」
「あぁ、いたよ。というかその言い方何だよ!?」

永見が酒井の兄の存在に驚く中、西尾は相変わらず酒井をいじる。

「というか、なんで桜井がそんなこと知ってんだよ!?」
「隣の研究室の先輩が教えてくれたんすよ、酒井さんが兄貴の元カノの結婚式に行くか迷ってたって」

酒井は桜井の情報網に驚く。
桜井の言葉に西尾が食いついた。

「なんすかそれ!修羅場っすか!?兄貴は行ったんすか!!?」
「あー、そんなんじゃなくてさ、あかりさんとは家族ぐるみで親しかっただけだよ。」
「…………つまんないっすね。」
「悪かったな、つまんなくて。」

修羅場を想像した西尾のテンションが下がる。

「じゃあ、あかりちゃんってことで清川にメールしますね」

永見は素早く二つ折り携帯電話に文字入力すると、送信完了画面を酒井に見せた。

数分後、清川からの返信のメールに永見が固まり、そのメールを見た他の面々が爆笑した。

こうして始まったあかりちゃん作戦により、清川は卒業論文を乗り切ったのだった。
これがのちに「あかりちゃん事件」と呼ばれる騒動である。


この2年後、酒井の研究室生活6年目にして、本当に事件と呼ぶにふさわしい出来事が起こることなんて、その日が来るまで酒井は予想さえしていなかった。

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