3話 誰しもきっと事情があって
「おーい、清川ー!」

清川が停止している。
昨日はうなだれながらも、反応はあったし、実験もしていたが、今日は完全に停止している。
空のフラスコを前に実験を開始しようとしたところで止まっているようで、薬品を使い始める前であったことはせめてよかったと言える。
昨日の藤城さんの同棲話がよほど衝撃だったんだろうと、酒井は思う。

「いい加減に実験始めれば?」

隣で実験をしている永見が、そんな清川を横目に見てそう言った。

「うるさいリア充!」
「彼女いるけど悪い?」

永見はメガネごしに清川をにらんだ。
清川はううう、と何も言い返せずにいる。
そりゃそうだ、今のは永見の言うことが正論だ。

はぁ……、と酒井は深いため息をついて、頭をかいた。

「永見、ちょっといい?」
「なんすか、酒井さん」

酒井は永見を研究室のすみに呼び寄せる。
そして小声で永見に言う。

「また、卒論のときみたいに、あかりちゃん作戦に協力してくれないかな?このままじゃ清川、修論がヤバい。」

修士課程2年の清川は修論つまり修士論文を書かなければならない。
そうしなければ修士課程を修了して卒業することができないから。

「酒井さんの頼みでも、今回は断ります」

永見の返事は2年前とは違っていた。

「あのときはまだ余裕があったからやりましたけど、今回は俺も修論で忙しいんで。それにもう、ここまできたら、アイツの自業自得ですよ。」

修士課程2年なのは、永見も同じだった。
卒業論文も大変だが、修士論文となると、その大変さをさらに上回る。

「そっか、永見。悪かった。」

そう言って酒井は永見に実験に戻るように仕向ける。
それに従って、永見は途中だった実験に戻っていく。
そんな永見の隣には相変わらず止まっている清川。

そんな清川を見て酒井はまたため息をついた。

「清川、そんな調子なら、今日はもう帰れよ」

酒井はそう言って清川に帰宅を指示した。
テキパキと動かない清川に実験台を片付けさせ、白衣を脱ぐように仕向け、荷物を持たせて、研究室のドアから廊下へ出す。

「なんかリフレッシュして、明日は頑張るようにな!」

そう言って酒井は元気のない清川を見送った。
そして研究室のドアを閉めて、またため息をつく。

「って言っても、清川のことだから無理かもなぁ」

そんな酒井の姿を宮野志保は片目に見ていた。
その視線に酒井は気が付き、彼女に話しかける。

「宮野さんさ、メル友くらいでいいから、清川に誰か紹介してやってくれない?」

彼女は実験をする手をとめて、酒井を見る。

「どうしてそんなに清川さんのこと気にかけるの?永見さんも言ってたようにもう自業自得でしょう?」

酒井はその問に研究室内を見渡す。
研究室には酒井と彼女の他には、少し離れたところで黙々と実験をする永見だけだった。

「いや、実はさ、」

まだ大学で誰にもしていない話。
ただこの話を彼女にはしてもいいような、そんな気が酒井はした。

「清川って、俺の死んだ兄貴の彼女だった人の弟なんだよね。清川は知らないけど俺にとってホントに、弟みたいなもんでさ……」

兄貴の元恋人、あかりさん。旧姓、清川あかりさん。
清川祐磨の姉で、兄貴が婚約していた女性。

彼女は酒井の言葉にしばらく黙ったあと、口を開いた。

「いいわ。知り合いに声かけてみてあげる。」
「ありがとう、宮野さん」

酒井は彼女に感謝を告げて、自分の実験に戻った。


 ☆ ★ ☆ ★


「それで、やっぱり、宮野さんはクールビューティで……」

坂上律子は昼時を過ぎ人の少ない学食で、宮野志保の大ファンと言えるサークルの先輩の雑談を聞いていた。
そんな中、律子のスマホが着信音を鳴らす。
律子がスマホを開くと着信はメールで、相手は話題の宮野志保からだった。

坂上さんって彼氏いるの?
ちょっと頼まれてくれないかしら。

「……先輩、宮野さん、恋バナの気配です」

そう言われた先輩は大きな声とともに立ち上がってしまったという。

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