I love you. を訳す
マンションの窓を開けてバルコニーに出る。
バルコニーの手すりに肘を置き、夜空を見上げる。
どうりで明るい夜だった今日は、満月だ。

「わぁ…。赤井さん、月が綺麗ですね!」

空を見上げたままそう言うと、後ろのリビングから、カラン、と氷がウイスキーグラスの壁面に触れる音がする。
そして後ろに赤井さんが近づいてくるのがわかる。

ん?そういえば今、私なんて言いました?
月が綺麗ですね、って夏目漱石がI love you. の訳に用いたとされる、かの有名な台詞ではないですか…!

「違うんです、今のは決してそういう意味では…!」

後ろを振り返って、勢いよくそう言うと、ウイスキーグラスを片手に窓辺に立つ赤井さんと目が合う。
赤井さんは一瞬だけ驚いた目をしてから、フッと笑う。

「ほぉ…。そうか。」

私と目線が重なったままの赤井さんの目の奥には悪戯な表情が垣間見える。

そもそも私は、月が綺麗ですね、という言葉を文学的に解釈されたかもしれないと思って訂正しましたが、赤井さんがその解釈そ知らない可能性もありますよね。
だとしたらテンパって訂正した私はとても恥ずかしいことをした訳で…。

いやでも赤井さんは今、そうか、と言いましたよね?
ということは、あの言葉を文学的に解釈されたのでは、という懸念から私が訂正したということがわかっているということですよね。

赤井さんが手にしたウイスキーを口にすると、ウイスキーグラスの氷はカランと音を立てる。
ウイスキーを口にしたあとの口角は上がっていて、悪戯な表情をした目は私に向けられている。

この感じはそれだけではない。
あの、そうか、の意味はもう1つ上をゆく。

「いえ、やっぱり、そういう意味でいいです…。」

私は赤井さんから目線をそらして、バルコニーに置いた腕に顔をうずめる。
きっと、今の私の顔は驚くほど赤い。
それくらい顔が熱いから。

月が綺麗ですね、という言葉をそういう意味ではないと否定するということは、
“そういう意味”である“I love you.”を否定するということだ。
先ほどの悪戯な笑みからして、そうか、に込められた意味はこれだ。

私がバルコニーの手すりに顔をうずめていると、ぽん、と私の頭に手が置かれる。
この手はきっと、“そういう意味”を理解して受け取ったという返事で、さらに恥ずかしくなって、より一層、顔を腕にうずめる。

そのまま赤井さんの手は私の頭をぽんぽんとなでる。
そして、カランとウイスキーを口にしたときの氷の音がする。

「赤井さん、知ってたんですね。『月が綺麗ですね』って。」

私が顔を上げずに言うと、あぁ、と返事が返ってくる。

「夏目漱石が英語教師をしていた時に、I love you.の意訳として生徒に教えた言葉だろう。
最も、出典がなく、創作の可能性が高いとされているが。」

赤井さんはゆっくりと淡々としたいつもの口調でそう言う。
私はバルコニーの手すりからゆっくりと顔を上げる。

「仮に創作だったとしても、『月が綺麗ですね』という言葉に愛を伝える気持ちを込めるとは、どのような心情なのでしょうか?」

私はバルコニーから見える月を見上げる。
傍らにいる愛しい人に、月が綺麗ですね、と伝える心情…。

「『愛しい君がそばにいる夜だから、いつも見える月が今夜はとても美しく見える』という意味なのでしょうか?」

出典不明で創作なのだとしたら、その真意を確かめる方法などないのでしょうけれども。

「『愛しい君がいたから、月が綺麗であることに気付くことができた』という意味かもしれんな。」
「え?」

赤井さんがポツリと呟いた言葉に、赤井さんを見上げる。
すると赤井さんは月に向けられていた目を私に向ける。

「お前がいなければ、こうして月を見上げることはなかっただろうからな。」

そう言って私を見るその目は、とても優しかった。
その目は私の心を、なんだか優しく撃ち抜いて、なんともいえない気持ちが込み上げて、いっぱいになる。

「赤井さん!!」
「なんだ。」

そのいっぱいになった気持ちを放出するように私は赤井さんの名前を呼んだ。
そしてその気持ちをすべて込めた笑顔と声で言う。

「月が、綺麗ですね…!!」

そう言って赤井さんの胸に飛び込んだ勢いで、赤井さんの手のウイスキーグラスの氷はカランと音を立てた。



《その後……》

「赤井さんなら、どう訳します?」

赤井秀一の腕の中で、藤城雪乃は彼を見上げて尋ねる。
赤井は、そうだな…、としばらく考えた後、腕の中の雪乃を見つめて言う。

「『命に代えても、お前を守る。』」

雪乃はその言葉を聞いて、赤くなった顔を隠すように額を赤井の胸にぶつけて、はい、と呟く。
赤井はそんな雪乃の髪を優しくなでる。

「お前ならどう訳す?」

赤井は雪乃の髪をなでながら問う。
その言葉に雪乃はゆっくりと顔を上げて、赤井を見上げる。
そしてしばらくそのまま顔を見上げ続ける。

「なんだ?」
「いえ、今のこの気持ちを的確に表現した言葉がふさわしいかと思いまして…。」

しばらく何も言わない雪乃に赤井が尋ねると、雪乃は少し苦笑いをしながら答える。
その言葉を聞き、赤井は先ほど雪乃が顔を上げたときに離れた手を、再び雪乃の頭にぽんと置く。
そして、雪乃はまたしばらく考えたあと、うん、と決意したように頷く。
それから改めて赤井の顔を見上げて、目をまっすぐに見て、笑顔で言った。

「えっと……、大好きです…!」

赤井は腕の中の彼女を、強く、そして優しく抱きしめた。


あとがきというか作成秘話報告(2015/09/12)

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