小説 | ナノ
ありがとうの日
おかしい。何かがおかしい。
「あ、シャチ! 丁度良いところに。ねえ、ペンさん知らない?」
「っ…いや、分からねェわ。悪ィ」
おれの伸ばした指先はその肩に触れることなく、呆気なくも空を切る。逃げるようにしてその身を翻したシャチの背中を、おれは無言で立ち尽くし見送った。
おかしい。何かがおかしいのだ。
おれが何をした訳でもない。しかし、数日前を境に、何故だかクルーたちの態度が急によそよそしくなったのだ。
シャチに冷たくされることならままある。しかし、今回はその原因となるセクハラを働いた訳でもないはず。そして何よりおれがシャチに何をしようとも、クルー全員にまで避けられる謂れはないのだ。
――気に入らないな…。
自分の知らないところで、何かが起こっている。その首謀者が誰であれ、面白くないことは確かだ。
しかし、黒幕が全く分からない。少なくともシャチではないのは確かだ。アイツの根本は素直で、他は兎も角おれに嘘を突き通せるとは思えない。今まで、何年も共にいたのだから。
しかし、手がかりが何もない訳ではない。犯人が尻尾を出さない。それがつまりは大きなヒントだ。そいつはおれを欺けるくらいに、頭の回る人物。この船では船長か――あるいは、
「―――バンダナ」
突如真っ直ぐに響いてきた一つの声が、おれの足を引き留める。態とにのろく振り返った先で、おれは今正に考えていた人物を目の当たりにした。
「ペンさん」
唇を端を笑みの形に持ち上げた。しかし、瞳では決して笑わない。と言うのも、こちらを見据える濃紺の双眸が、全く笑っていなかったからで。
「どうしたのペンさん、おっかない顔して」
白々しくこの場を取り繕うおれの笑みだけが今は、張り詰める空気の崩壊を防ぐ。しかし、それも直に意味をなくすのだろう。滅多にない程の真剣な雰囲気を纏ったペンギンは無言で、ただ只管にこちらを見つめてくる。
「なんかまるで、別れ話を切り出す女の子みたい」
「…真面目に聞いてくれ」
低く呟かれたそんな言葉に、微かに隙間を保っていたおれの唇から取り繕った笑みが抜けた。己の意に反して強張っていく表情筋に、内心戸惑う。
「ずっとお前に言いたかったことがある」
「な、に……」
何か途轍もなく重大な言葉を備えている。ペンギンの強い眼差しにそう確信したおれは、全く予想のつかないにそれに大きく唾を飲み込んだ。
一瞬、ペンギンの瞳は長い睫毛に翳り、しかしまた持ち上がる。視線が絡み合った。
躊躇うようにして小さく震えたペンギンの唇が、薄く隙間を作って。
「―――…」
そこが大きく息を吸い込むのを、おれは微動だにせず目堵し続けていた。――そのとき。
「――…っば、ベポ!!」
「うわぁ!」
べちゃり、そんな効果音が似合う様子で、突如現れたオレンジの巨体。
「は…?」
おれの目の前に立つペンギンの、その向こう。曲がり角から倒れ込んできたらしい白熊は、その愛らしい顔に指を立てばつが悪そうに頬を掻く。
おれに相対する防寒帽はその鍔を下げ、深くため息を吐き出した。
「くっそ…もう良いか。行くぞ!」
「「「おう!」」」
それからベポの影より、呆れた様子で飛び出してきたシャチを先頭に、ぞろぞろとクルーたちがおれの周りを取り囲んできたものだから驚いた。
「ちょ、え……何?」
多分、おれはひどく動揺して目を白黒させていたのだろう。こちらの表情に目を留めたペンギンが、ふっと口角を緩めた。その表情があまりに柔らかかったものだから、おれは思わず息を呑む。
そのとき、硬く靴音を響かせてペンギンの隣に並んだ一人の男が、徐に片手を持ち上げる。その洗練された一挙一動に、おれは目が離せない。しかし、それは他のクルーたちも同じようで。あっという間にこの空間を支配してしまったその男――我らが船長は、鋭く口端を持ち上げたままの状態でパチリ、一つ指を鳴らした。
「やれ」
瞬間、弾けた無数のクラッカー。降り注ぐ紙吹雪と長いリボンとに唖然と唇を開け放したおれに一歩で肉薄したペンギンは、綺麗な弧を描いた唇で優しく囁いた。
「――お前が生まれてきたことに、感謝する」
思わず息を詰めたおれに構わず、次いで「バンダナ、おめでとう!!」とクルーたちの声が重なった。その言葉におれは漸くと思い出す。今日、8月7日は、おれの誕生日だ。
緩く微笑んだままで深く帽子をかぶり直してしまったペンギンに呆然と目を留めたまま、おれは飛び掛かってきた白ツナギの集団にもみくちゃにされる。
「アイアーイ、バンダナっ! 本当におめでとう…!!」
そんなむさ苦しい男たちの中、遅れて飛び込んできたベポに、おれたちは遂に倒れ込んだ。
「いってー!!」
「ちょ…重い! マジで重い!」
「いだだだだ!!」
その騒ぎは最早、お祝いの意味をなくす。要はみんな、何かと理由をつけて馬鹿騒ぎしたいだけなのだ。それは分かってる。だけど。
「――なあ、みんな」
通る声を張るがしかし、喧騒は止まない。だけど、それが大層おれ達らしいことだと思ってしまえば、だらしなく緩む口元を引き締められない。みんなも笑っていた。
「ありがとう…! オレ、この船のクルーで良かったわ。ほんとに」
そう言って思うままにへにゃり、瞳をなくせば、ベポやシャチ、更にはペンギン、そして遂には船長までもがおれを押し潰しに来たので、おれは笑って全ての衝撃に備えることにした。
おれはこの世界に生まれてこれたことに、心から感謝する。
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私の誕生日祝いでソウちゃんから頂きました!
ソウちゃんありがとう!