小説 | ナノ
できれば何も取り繕うことのない、ありのままの心で。
手のひらに当たりその肌を伝い落ちるは、ひどく人肌に優しい温度。中途半端に温かな水。
ややあってそこ――清流の中にころり、ため息が一つ溢れ落ちる。間をあけて数秒、排水口へと吸い込まれていったその気儘な流れは、僅かに黒く濁ったような気がした。
そのことに若干眉間には自然と皺が寄ったものの、直ぐさますっとそこを正す。
最近、どうにも気が抜けない。それは例え、おれが一人きりでいるときも。
きゅっと甲高い音を響かせ、蛇口を締める。落下の勢いを台にせき止められ、腹の奥――何となく横隔膜辺りへと響くように空気を震わせていた水音が、ぴたりと止んだ。静寂。ぱっぱと飛ばした水滴はきらり、どこかの明かりを跳ね返した。
予め唇に咥えておいた深い青のハンカチを取り、おれは海図の作成でいつの間にかインクの黒に汚れてしまっていた手のひらの側面を拭う。まだ少し、色が残ってしまっている。おれは音を立てず、また僅かに嘆息した。
「なーにしてんの、こんなところで」
――…来たか。
ほら、また。
気の抜けない"原因"がその姿を現す。
振り返ればそこにはへらり、たれ目を細めるバンダナ男――イルカが。…しかし諸事情によりおれはこいつを、滅多にそうは呼んでやらないことにしているのだが。
「何の用だ」
こいつは手が早い。それは以前から再三、シャチに聞かされていたことだった。だが、その言葉をおれが特に気にすることはなかった。
そう、あのときまでは。
「用がなかった声をかけちゃいけない?」
余裕の笑みをその顔に浮かべたまま、ゆっくり、俺との距離を詰めてくるこいつの真意はいつも――…分からない。
「用がないのに、何故声をかけてくる」
おそらく、あのときのバンダナは本気ではなかった。ちょっとしたお遊びのつもりだったのだろう。
しかし不意を衝かれたおれはポーカーフェイスを保つことを忘れ、柄にもなく大袈裟な反応を見せてしまった。…一瞬、信じかけてしまったのだ。今でも後悔している。
バンダナがやたらとおれに纏わりつくようになったのは、それからだった。
バンダナはおれの目の前でぴたりと、その足を止める。その距離は僅か、一メートルにも満たない。手を伸ばせば直ぐにでも触れられてしまいそうだ。
バンダナはその金の髪をさらりと僅かに揺らし、態とらしい態度で首を傾げて見せた。
「分からない?」
「っ、」
…まずい、表情を取り繕えない。
それが分かったからこそ、おれは逸早くこの場から立ち去らんと僅かに後退ってみた。がしかし、不意に腰と踵の辺りに感じた固い感触。
失念していた。つい数十秒前まで手を洗っていたおれの背後を塞いでいたのは他でもない、金属製の手洗い場。
バンダナがまた一歩、足を踏み出してきた。そして徐にふうっとその――黒いリストバンドの先にある――手のひらが持ち上がってくる。
宙に浮かされたそれは、真っ直ぐにおれの頬へと伸ばされてきて―――…
「お、れは…っ!」
咄嗟に、張り上げた声。
ぴたり、
バンダナの手のひらは小さな反応を見せ、その動きを不自然に止めた。
それを確認したおれはほっと、悟られない程度に息をつく。ややあって慣れない大声の直後、咄嗟には思い浮かばなかった言葉をどうにかこうにか考え出し、おれは内心の動揺を必死に押し殺しつつ早口に台詞を繋ぐ。
「――…おれはまだ仕事がある。もう行くぞ」
暇なら地下倉庫の整理を頼む、と然り気無くきつい仕事を言いつけ、おれは足早にその場を後にした。
背中に刺さるやけに真剣な眼差しには、気がつかない振りをして。
おれには、あいつの心が分からない。
冗談だったんじゃないのか。
何故おれに構う。
こんなにも口下手なおれの、一体どこが良いんだ。
分からない、何も。分からないことだらけだ。
普段無表情で何を考えているのか分からないと揶揄されることの多いおれだが、そんなことはない。それは普通の人間が気づけないような仕草や些細な変化の中だけであっても、おれはよく自分の感情を晒してしまう。
多分おれよりもバンダナの方こそが、滅多に心からの表情を見せていないのだ。
『…………』
『――え…、』
…あのとき。
おれがみっともなく赤面をかましてしまい、それと同時にバンダナのにやけたポーカーフェイスの仮面が剥がれた――あの、一瞬以外は。
……おれはもう一度、あの顔が見たい。
そうすればおれは、あの戯言をほざき続けるよく分からない男の剥き出しの心に触れられるような気がする…のだ。
汚れていた手のひら。それらとはあまり会いたくなかった男との遭遇というちょっとしたアクシデントがあったものの、無事に決別することができた。
自室に戻ったおれは書き終えた海図を仕舞い込むのと共にちょっとした書類の整理を済ませ、それから食堂へ向かわんと席を立つ。
取り敢えずやらなければならなかったことには全て、片を付けた。今から少し、コーヒーを一杯飲むくらいの休憩を取っても罰は当たらないだろう。
おれの顔を見た途端、素早くブラックの準備を始めてくれたコックに一言礼を言いつつ、おれは廊下へと出る。
雑味が少なくまるで透き通るような、そして心地好いまでの深い薫りが印象的な…――美味いコーヒーだった。
考えながらしかしおれは、こつこつこつこつ足音を鳴らす。それにしても、深海の水圧に対応した潜水艦だということもあってか、ここはいつも薄暗い。
しかし、ここまでの暗さならもしや。
おれは部屋へと続く道をふらり逸れ、甲板に繋がる重い扉を押し開ける。
見えた空は案の定一面灰色。厚い雲を映した海は荒れ、波も中々に高かった。
「――あ、ペンギンさん!」
不意に響いた船員(クルー)の呼び掛け。おれはくるりと振り返る。そこには、困り顔で両の眉を下げる航海士の一人がいた。
「どうした」
「いや〜…それが、このままだと時化に流されていきそうなんです。――キャスケットさん、どこにいるか知りませんか?」
――…あの、馬鹿キャス。
おれは僅かにきりりと痛んだ右脳を無意識の内に押さえ、大きく息を吐き出した。全く、人間の脳には痛みを感じる神経がないというが、本当は嘘だったりするのではないだろうか。
普段騒がしくおちゃらけたことばかり言っているあんな奴でも、その実かなり優秀な一等航海士。しかし、こんなときにいないのでは意味がない。
「…探してくる。それまで、船のことは頼んだぞ」
「は、はい!」
しゃきんと気張って背筋を伸ばしたその男を横目で流しつつ、おれは早足に歩き出す。向かう先は一先ず奴の自室。
さて、どうしてやろうか。
視線の先に見えた、緑色のキャスケット帽子。丁度通路の曲がり角の辺りにその明るい茶色の跳ね髪を見つけたおれは、つかつかとそちらに歩み寄る。
そのとき同時におれは、壁の影に隠れていたもう一つの人影を見た。ボーダー柄のバンダナに纏められた金糸を揺らして笑う、緩やかにまなじりの落ちた下がり目。その、男は。
「――…何をしている」
思わず、おれはそこにたどり着く前に自分から声をかけてしまった。二人分の視線がぱっと、こちらを振り返る。
何故、シャチは本来の自分の仕事をほったらかしてここにいるのか。
どうして倉庫の整理を頼んだはずのバンダナが、こんなところで油を売っているのか。
おれはただ、それが気になっただけだ。
バンダナの奴はおれにしつこく付きまとう。その癖、シャチの奴にもいつもいつも言い寄っている。
別に、そのことが気に入らないとか、そういう訳ではない。ただ全く、あいつは何を考えているのか分からないというだけだ。
分からない。分からないから、苛々する。もやもや…する。
いや、やはりおれには関係ない。どうでも良い。
バンダナのことなど、どうでも良いのだが。
「――あっ、ペンさん」
おれの名を呼んだシャチのその表情は、まるで助かったとでも言わんばかりに輝く。
するとその横でするり、不意にバンダナが軽い口調で言葉を紡ぎ出した。
「いや〜、それがさ?」
――…整理の最中に出てきた、不必要な物のこと。そしてそれを捨てに向かうまでの経緯。
バンダナのその話にああと直ぐに納得したおれは、何度か軽く首肯する。
「――そしたら丁度、キャスに絡まれちゃって…」
「絡む? 寧ろ逆だろ、逆!」
ぎゃんぎゃん。
そんな形容が相応しい様子でそのひどく胡散臭い笑みに向かって噛み付き始めたシャチを見やるバンダナの姿に、おれは不意に目を奪われた。その穏やかな雰囲気を纏った瞳の色は、やけに優しい。…ように感じる。
長い通路にシャチの上げる声とそれを態とらしく宥めるバンダナの声は、よく響いた。
おれは、顔をしかめる。
そのときふっ…と、こちらに流れたのはバンダナの――目尻に向かって滑らかに下降を描く――切れ長の瞳。それはひたとおれの顔を捉えると、にやり、唐突に弧を描いた。
「あれ? ペンさん…、もしかして妬きもち?」
「なっ…」
謂れのないその言葉。おれは絶句した。
しかしこのまま言わせておけないと慌てたおれは、直ぐさま唇を開く。
「違う…! そんなこと、ある訳ないだろう」
危うく声がひっくり返りかけた。何故、こんな。
「あるかもしれないじゃん。――ねえ? キャス」
「ねーよ」
そんなおれの声に応えたものは、そんなバンダナのふざけた言葉。それをひどく冷めた表情でにべもなく切り捨てるシャチの姿を見、おれはきゅうと唇を固く一文字に結んだ。
…何故、おれはああできない。どうして動揺してしまうんだ。
ややあってふうと息を整えたおれは気持ちを切り換え、すっとシャチの方に向き直る。
「キャスケット、さっさと甲板に向かえ。時化だ」
「えっ…す、すみませんっ」
「それからお前は後で、便所掃除だ。――この先、一週間は頼むぞ」
「なっ…! ちょ、ペンさん、冗談っスよね!?」
手短に要件とサボりの罰を言いつけたおれは、もう言うことはないとシャチから目を離す。シャチもそんなおれの態度に諦めたのか、じきに唇を閉ざした。数秒間の沈黙の後、緩やかに響き始めたシャチの――大人しく遠ざかっていく――その足音を聞きながら、おれは次にバンダナへと視線を移す。
「バンダナ、」
「――分かってる」
おれの言葉を遮った唇はゆるり、その形を意味ありげな微笑のそれへと変えた。
おれの胸の奥でぴくり、何かが跳ねる。
「仕事くらいちゃんとするよ。ペンさんから直接、頼まれたことだしね」
「…………」
くると踵を返したバンダナの背中では、にやり、髑髏がおれをあざ笑っていた。
ふわあ、大きな欠伸を漏らし遠ざかっていくその背に、おれは何も言えない。
何となくその金髪が次の曲がり角に姿を消すまで、おれはそこにじっと立ち尽くしていた。
それは、唐突のことだった。
再び自室に戻り、この間島で手に入れた興味深い体術についての記述がなされている本を読んでいたおれの脳裏に、俄によみがえってきた映像。
…昨夜、毛布を片手に甲板の方へと向かっていった背中。そこにあった髑髏。
そしてつい先程見たばかりの、大きな欠伸。
おれは気づく。
――そう言えばそうだ、昨日の不寝番は…確かバンダナ。
しかし、それがどうしたと言うのだろうか。
おれは自分に自分で首を傾げ、再び目の前に並ぶ文字の羅列を追わんと視線を落としかける。
――待てよ。
しかし止めた。思案のときには決まってそうするように顎の下へと静かに二本の指を当てたおれは、僅かに視線を伏せる。
無防備な欠伸。それも相手の苛立ちを誘う為に故意になされるそれではなく、純粋な眠気によるもの。随分と珍しい光景だ。
――…ああ、そうか。
しかし、おれは唐突に悟る。思い出したのだ。一昨日の夜から昨日の早朝にかけ行われた、ちょっとした宴のことを。
それが起こった理由など、疾うに忘れてしまった。何せ、そんなものはあってないようなもの。船員たちはただ単に、馬鹿騒ぎをしたいだけなのだ。
騒ぐのは、良い。おれも宴は嫌いじゃない。しかし、面倒なのはその後始末。シャチを筆頭とする酔っぱらいどもの介抱は、必然的に最後まで意識を保っていた者がしなければならなくなる。だが勿論、それを進んでやるはずもない船長は例外だ。となれば恒例のメンバーは決まってくる。おれとバンダナ、他に数人。
その夜もおれたちは結局眠ることができず、朝まで吐き気を催す馬鹿どもの気道確保に追われ――…
そこでおれははたと、あることに気がついた。
――バンダナの奴、もしかして二日前からずっと寝ていないのか…?
「…………」
考えてしまえばその場から逃れる為とはいえ、咄嗟に面倒な仕事を押し付けてしまったことに対して些か罪悪感を感じるのを否めない。
十数秒の沈黙の後、おれは深くため息をつくと、重い腰を持ち上げゆるりとそこへ向かうことにする。
今ごろ中々片付かないその部屋にバンダナが悪戦苦闘しているであろう――地下の倉庫へと。
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