神童の弾くピアノの音色は、いつも澄んでいて、やわらかで、やさしくて、穏やかだ。どんなフォルテシモも、絹のうえをすべるように、まっすぐに広がって、部屋じゅうをふるわせる。ピアニシモは、消えそうで消えない儚さをふくんで、ささやくように俺の鼓膜に届く。ピアノを弾く神童は美しくて、中性的で、天使のようだ、と心の内で幾度形容しただろう。
窓の外ではつめたくしめった重たい雪が降り積んでいるのだろう。すくなくとも俺が神童の家まで歩くあいだは、降っていた。つやつやのグランドピアノを中央においたこの部屋の窓は、うすいレースのカーテンでおおわれていて、外が見えないのだ。アイボリーの壁紙と、ダークブラウンの窓枠、ふかふかの花柄のじゅうたんでつつまれた部屋のなかは、心地よい薄暗さに満たされている。
神童のクレシェンドが好きだ。神童はクレシェンドがうまい。ちいさく、それでもこれからの発展を秘めている、力づよいピアニシモの音からはじまり、中盤であたたかみのあるフォルテに近づいていき、そしてのぼりつめてつきぬけた、喜びと、なにか言いあらわせない微妙な感情をともなって、フォルテシモが俺のからだをふるわせる。神童は目をとじて、顔をしかめ首をかしげて鍵盤に指をはしらせる。腕をうえにあげて、勢いよくふりおろして出す音でさえも、尖ることなく、澄んでいて、丸みをおびたフォルテなのだ。俺は神童が鍵盤をたたいて弾くのを見たことがない。
くしゃっとしたゆるやかなウェーブを描いて、神童の髪がゆれる。ピアノに向かう神童の横顔の、あごから喉元のラインもきれいだ。かすかにまつ毛がふるえて、神童が目をあけた。
こんなふうに死んでいきたい、そう思わせるやさしいピアニシモで曲が終わる。ペダルでのばされた和音が、ゆっくり、しずかに、減衰していく。神童の足が、音もなくペダルからはなれて、神童が俺を見た。視線がかち合う。たまらなく神童が愛しいと思った。きっと、たぶん、この気持ちを愛しいと言うのだ。
銀色のトレイのうえの、二つのティーカップにはいった紅茶は思ったよりも冷めていなくて、ああ、これはアールグレイだ。革ばりのソファにからだをしずめて、紅茶をすすった。となりにすわった神童が、ティーカップに手をのばして、そっと、カップのふちに口づけるように紅茶を飲んだ。
「……たくと」
俺の口からこぼれ出た三音はつたなかったけれど、
「らんまる」
笑った拓人はやはり、天使みたいだと思った。




BGM:愛の夢/リスト
  ソナタ「悲愴」第二楽章/ベートーヴェン


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