今日は部活が休みになった。円堂監督は出張で、音無先生も用事があるらしい。 晴れているのにサッカーができないのは少々惜しいけれど、テストはまだまだ先のことだし、今日は久しぶりに、ゆっくりピアノでも弾こうか。 そんなことを考えながら、かばんに教科書やノートをつめていると、名前を呼ばれて、顔をあげた。 ドアのところに南沢さんが立っている。彼は部活を辞めてしまったから、姿を見るのは久しぶりだ。 あいかわらず気怠そうである。 机のなかに手をいれると、もう持って帰るべきものは入っていなかったので、かばんをつかんで南沢さんのところにかけよる。 「ねぇ、今日部活休みなんだって?」 このあと暇? ときかれたので、首肯する。 なんだろうか。 「ピアノ、弾いてよ」 「……え」 まさか、そんなことを頼まれるとは思いもしなかったので、言葉がつまった。 「ええと、別れの曲?……弾ける?」 「弾けますけど」 別れの曲……。 ショパンのエチュード、op.10-3、ホ長調。美しい曲だ。 別れの曲という愛称はショパンがつけたものではない。 だけど俺は、南沢さんに、いわゆるその、恋心というものを抱いているわけで。 憧れている相手から、別れ、なんて言葉を聞くとなんだかとてつもなく生々しく、不吉なもののように聞こえてしまう。 「……だめ? 神童んち」 南沢さんがのぞきこんできた。 「わ、いや、だめ、じゃないです」 近い。顔が。 「ん、じゃあはやく行こう」 うなずいてみせると、南沢さんはすたすたと歩きだしてしまった。 教室を振り返って、目が合ったので霧野に片手をあげてみせて、俺は南沢さんのあとを追った。 * * * 住宅街のなかをならんで歩いていく。 「南沢さん」 「んー」 「どうして別れの曲を?」 すこしどきどきしながらたずねてみる。 「ん、神童っぽかったから。今日の音楽が鑑賞でさ、それ聴かされたの」 「なるほど」 そういうことか。 「なんだっけ、正式名称は、エチュード?」 「はい、練習曲です。まあ、ショパンのものはかなり高度なテクニックのためのやつですし、音楽的にもすばらしいものばかりなんです」 「ふうん」 興味があるのかないのか、よくわからない返事が返ってきた。 「あ、ここです」 「おー、でかい家」 門を押して敷地に入る。 南沢さんが、空を見上げてつぶやく。 「曇ってきたな」 言われて顔をあげてみると、さっきまでまぶしいほどだった青空を、灰色のどんよりした雲が覆いはじめていた。 「傘、持ってないですね」 南沢さんはかばんを肩にかけているだけで、手ぶらだ。 「神童が貸してくれればいいよ」 「はい」 言葉を交わしながら歩いて、玄関に入る。 「お邪魔しまあす」 気の抜けた南沢さんの声。 「こっちです」 ピアノのある部屋に案内する。 「うわ、立派なピアノ」 「ピアノのこと、わかるんですか」 「全然。でも学校のよりきれいだな」 南沢さんは、部屋の中央に置かれたピアノに近づいて、手をおいた。 「学校のやつは、生徒が乱暴に扱ったりしてるんでしょう」 傷がついた、音楽室のグランドピアノを思い出す。 そのことを考えるとすこし、胸が痛む。 「気になるんだ、やっぱ」 「まあ……サッカーと同じくらい、好き、ですから」 ……南沢さんのこと、も。 いつだったか、俺はなぜかすんなりと、南沢さんに恋している自分を受け入れたのだった。 そしていまも、まだそれは淡くてやわらかい思いなのだけれど。 南沢さんが立ったままなのに気づいて、 「南沢さんは、そこのソファにどうぞ」 あわてて、言う。 「どうも」 俺もピアノの前に座る。 まだ暗譜しているはずだ。 「あれ、楽譜見ないの」 「暗譜、してるんです」 「おー、すげえ」 南沢さんが目を閉じた。 深呼吸して、鍵盤に指をおく。 最初の打鍵。 ふんわり和音が広がった。 焦らずに、ゆっくり、旋律を歌わせる。 一瞬のフォルテからピアノ、またクレシェンド……。 はりつめた音のまま、下降。 体を揺らして、鍵盤のうえに指を走らせる。 さいきんゆっくりピアノに触れる時間がなかったから、弾けなくなっているかな、とも思っていたけれど、どうやら杞憂だったようだ。 最後まで、気は引きしめて、音はゆるやかに、小さく、消えていくかのように。 澄んだ和音が部屋を満たした。 余韻を味わいながらそっとペダルから足を離す。 南沢さんはまだ目を閉じている。 どうだろう、お気に召しただろうか。 どきどきしながら南沢さんを見つめる。ゆっくりと、彼の目があけられた。視線がかち合う。 「……うまいな」 ぼそっとつぶやかれた一言に、顔が熱くなるのを感じる。 「いえ、プロの方々の足元にも及ばない演奏です」 うまく弾けたとはいえ、もっともっと精進しなくてはならない。 「そんなことない、神童のほうがうまいよ」 「……っ」 どんな言葉よりも嬉しい。 南沢さんは、 「俺、神童のピアノ、好き」 さらに追いうちをかけるように、そう、付け加えた。 「あっ、ありがとうございすっ……!」 声が裏返った。 南沢さんはくすりと笑みをこぼして、 「どういたしまして。ね、それより、もっと弾いてよ。雨降ってきちゃったし」 首をかしげた。 外を見やると、 「え、あ、ほんとだ……」 いつの間に降り出していたのか、景色は雨でくすんでいる。 「もうすこし弱まるまで、せっかくだし、もっと聴かせてよ」 南沢さんはピアノの横に歩み寄ってきて、ささやいた。 また顔を寄せられている。ち、近い。 すぐそこに迫っている南沢さんの顔を見れなくて、うつむく。 「なに恥ずかしがってんの」 笑いをおさえた声でそう言われたかと思うと、頭にぽん、と手がのった。 「ねぇ、俺のために、弾いてよ」 「っ、はい……」 大きくうなずくと、南沢さんはついに吹き出した。 「ぷっ、おまえなんか犬みたいだな!」 「なっ、余計なお世話です! それより何が聴きたいんですか!」 言ってくれなきゃ弾きません、と言った俺に、南沢さんは、もう一度、別れの曲を、と言った。 「ん、でも別れの、ってやだな。エチュードって呼ぶか」 なんだか俺と神童がさよならしちゃうみたいでやだな、という言葉を、俺はよろこんでいいのだろうか。 |