小説 | ナノ



透明引力の二重奏

※中学二年の冬の夕方から夜
※アニメでの中一の勝負を前提にした、もしもの話


 偶然なのか、それまた必然なのか。

「りん…」

 中学一年の冬、帰省した凛に勝負を持ちかけられたあのときと寸分たがわなかった。場所も服装も異なるのに、それでも同じだ。凛の曇った瞳が、戸惑いに揺れている。


 * * *


 あの日から約一年がたった。冬の寒空の下をなんとなくぶらぶらと歩いたら、いつの間にか海に出ていた。意志よりも身体が求めたのかもしれない。
 ひとが浜辺に胡座をかいているのを見つけた。コートが砂で汚れるのも気にしないで座り込む少年は、凛だった。

「ハル…一年ぶり…だな」

 去年はかろうじて見せてくれた笑顔はもうそこにない。遙は胸が痛むのを感じた。

「そうだな。…帰って来たのか…」

「あぁ。江が、妹がうるさくて」

「そうか」

「…今日は冷えるな」

「最低気温は零度以下らしい」

「寒いわけだ…」

 お互い去年のあのできごとは避けて、当たり障りのない話題を選んだけれど、会話が続かない。もとより話すことが苦手な遙と、話す気がない凛じゃ、続かないのは当たり前だ。小学生だったときは、凛の底抜けに明るい性格のおかげで、こんなに気まずいときはなかった。

 凛は今もなお泳いでいるのだろうか。泳いでいるのなら、泳ぐことをきらってはいないだろうか。遙にはわからない。
 きいてしまいたい。口に出すくらいは容易いけれど、それが凛を傷つけるナイフになるのだから、遙は言えないのだ。

「なあ、ハル。…最近どうなんだよ」

「なにがだ?」

「水泳だよ、わかんだろ」

 まさか凛が、自らそんなことを口にだすとは予想外だった。水泳の話題は禁句だとすら決めつけていた。
 だが、遙はすぐにわかっていた。最近どうか、と言われれば水泳のこと。だって、それしかない。自分と凛を繋ぐ糸は、水泳と書かれた一本しかない。頼りなくて切れそうな、細い糸。

「俺は、…もう…やって、ない」

 小さく言葉を紡いだ。ほんとうはこんなこと言うつもりは全くなかった。言いたいわけがない。凛を傷つける可能性のあることなんて。
 でも、遙は凛に嘘はつきたくなかった。どうしても。

「…なんで。なんでだよ!おまえが勝ったのに、留学した人間が勝てないほどおまえは早く泳げるのに!」

 凛は目に涙をためて、それでもこぼさずに遙につめよる。

「俺にとって水泳は…」

「勝ち負けじゃないとか、タイムじゃないとか言うんだろ。そうだよな、おまえはそういうやつだ」

「違う、凛。違くて、俺は」

「ききたくねえ。これ以上みじめにすんな。もう散々なんだよ」

「凛!」

「俺は結局、タイムにも勝ち負けにも興味のない野郎に勝てやしないんだ。我ながらみっともない」

「凛、きいてくれ」

「いやだ。どうせおまえには凡人の気持ちなんてわかんねぇよ!」

 言い捨てて、凛は遙を横切っていく。
 今絶対にこのままいかせてはいけないと、こころの叫ぶままに、遙は凛の手を少し乱暴につかんだ。

「離せ」

 凛は嫌悪を露にして、遙を睨みつけたけれど、いかんせん潤んだ瞳なので迫力がない。
 さほど抵抗しない凛に、心底遙はほっとしていた。両手でしっかりとおさえている凛の手は、あのとき手ばなしてしまったぬくもりだった。一度つかめたのに、み失ったものだった。

「俺は、真琴と渚と…凛と…凛と泳ぎたい。凛がやめてしまったのに俺だけ続けても意味がないだろ」

 返事はなかったけれど、かわりに凛が遙の服を弱々しく引っ張った。

「凛と泳げればそれでよかった」

 正直につげると、凛が遙の胸で幼子のように泣きじゃくる。その間、ひたすら遙は凛の背中をさすった。

 まだ泣き止んではいない凛が、突然遙の腕を強い力で引いて、浜辺から波打ち際まであっという間に連れていく。

「おい、りんっ!」

 コートとマフラーの姿でそのまま海水へざぶざぶと入ってしまう凛を、あわてて遙は追いかける。
 張り付いた服の湿った感じが、このときばかりは不快じゃなかった。

 水深一メートルくらいまで進んだ凛は、波に身体をあずけてぷかりと浮かんでいる。遙も隣に同じように並んで浮いてみせた。

「……俺、…もう泳ぎたくないって思って帰ってきたんだ。プールも海もきらいだって、そう思って」

「ああ」

「でもさ、今。今ハルとこうしてるのは悪くないな」

 凛がぎこちないけれど、それでも笑った。凛の瞳にうつる星は、まばゆい光を放っていた。
 この瞬間だけは遙も凛も、小学生だったときの二人になれた。分厚い隔壁が海に溶けたのを感じていた。

「俺もそう思う」

 遙の言葉が静寂に吸い込まれる。波はひどく穏やかだった。



*[濱中さまへ