愛情最上級
※小学生時代
火を灯した蝋燭のように、溶けてしまうような気がした。残暑、八月の終わりの出来事だった。
九月からは新学期が始まる。夏休みは残すところあと三日。私は憂鬱だと全身全霊で訴えた。暗い表情で、パジャマのまま、布団の上でうずくまっている。 階段を上がる音が、規則正しく響いた。お母さんは働きに出ていて、家にいるのはお兄ちゃんと私だけ。つまり、足音をたてているのはお兄ちゃんだ。
「江、入るぞ」
私に返事をする時間もあたえずに、お兄ちゃんは私の部屋に入ってきて、布団の横に座った。そして、手に持っていたお盆をそうっと置いた。 お盆の上には、お母さんが昨日作っていたお味噌汁とご飯。それともう一つ、形が悪い少し焦げた目玉焼き。
「お前朝ご飯食べてないだろ。もう午後になったぞ」
わかってると頷けば、お兄ちゃんはため息をついて、手振りで私に食べるよう促した。
「病人じゃないんだから、それ食って早く着替えろよ」
「はぁい。…これ…」
目玉焼きのお皿と箸を手にとる。
「へ、へんな形とか言うな。これでも頑張ったんだから」
「えっとね、ハートの形に見えると思ってたの」
いびつな形の目玉焼きのシロミのラインは、ハートに見えなくもないのだ。
「お。ほんとだ!こういうのなんだかいいな」
お兄ちゃんの笑顔は、さっきまでの私の曇った心情を照らすお日さまみたい。温かくて眩しくて、私はお兄ちゃんの笑顔がだいすきだ。
「いつかすっごくきれいなハートの形の目玉焼き、作ってね」
「いいぜ」
お兄ちゃんは笑顔のまま、私をぐりぐりと撫でた。 半年前から料理を手伝っているお兄ちゃんの腕前は、最初に比べて上手になった。食べられない黒焦げのなにかをお皿にのせて、苦笑いしていたお兄ちゃんを思い出しておかしい。
「食べるのもったいないなあ」
「食べなきゃ腐っちまう」
「そうだけど…」
この目玉焼きは私にとって特別なのだ。お兄ちゃんが、私に作ってくれたものだから。食べてしまったら、同じものには二度とお目にかかれない。
「また作るって約束しただろ。それに、こいつは江の身体の一部になるんだから、ずっと一緒だ」
「じゃあ、食べる」
「おう」
「いただきます」
私が手を合わせるのを見つめるお兄ちゃんの表情は、やさしかった。
* * *
食べ終わって、二人並んで食器を洗った。その後は特にやることはなくて、畳に二人して寝そべる。
「江は宿題終わったか?」
「うん。お兄ちゃんが手伝ってくれたから」
七月のうちに宿題をすませたお兄ちゃんは私に、宿題は早くやれと小うるさくいいきかせ、わからない問題があると言えば、懇切丁寧に教えてくれた。おかげさまで、毎年最終日までだらだらやっていた宿題を、今年は八月前半までにすませることができた。
「そうか。だったらなんでそんなに落ち込んでたんだ?」
「…学校始まるから」
決していじめられてはいない。ほんの少し名前のことをからかってくる男の子たちがいるのだ。他のひとからすれば、たいしたことはないかもしれないけど、小さな頃から名前をコンプレックスとする私にはつらかった。
「まだくだらないこと言う奴らがいるのかよ」
いつもお兄ちゃんには愚痴を溢していたから、彼は察してくれた。 お父さんがいなくなってからは、私はお母さんに心配させるようなことはしないように心がけている。気丈にふるまうお母さんのこころが、本当は涙で溢れていることを知っているから。 お母さんに頼らなくなった反面、お兄ちゃんにべったりくっつくようになったと思う。お兄ちゃんにはなんでも相談できた。
「名前もそうだけど、外見も女らしくないって言われた。私、女の子に見えないかな?」
お兄ちゃんは私をじっと観察するように見て、それから、
「櫛とゴム持ってこい」
と、一言こぼした。
私が言われた通りのものを手渡すと、お兄ちゃんが私の後ろに回って、夏休み中に伸びた髪の毛に櫛を通した。もとはお兄ちゃんと同じ長さだった髪は、今は肩につくまである。 今日一度もとかしていない髪の毛は、絡まるはずなのに痛くない。お兄ちゃんは、ゆっくり慎重に私の髪をとかしてくれているようだ。やさしいと思う。
「ほら、できた」
お兄ちゃんが鏡に私をうつしてみせた。鏡の中の私は、ちょっと不恰好なポニーテールになっていた。
「お前の髪のびてきたから…。結んだ方が女らしいかと思ったんだけど、どうだ?」
「気に入った!」
明日お母さんに髪を切って貰う予定だった。髪型をショートにしていたのは、誰にも言ってないけれど、お兄ちゃんとおそろいがいいからだった。
「良かった。それが一番似合うな。…かわいい」
照れながら言うお兄ちゃんに抱きついて、頬にキスをした。 そして、髪の毛をもっとのばそうと決めた。 明日切るのは中止。お兄ちゃんが似合うって言ってくれたポニーテールでいたいと私は思った。
またからかわれたらとっちめると、お兄ちゃんは私を励ますけれど、私はもう大丈夫。このポニーテールなら、なにを言われたってきっと平気。
「お兄ちゃんだいすき」
俺もと顔を赤くするこのひとが、私の唯一無二のお兄ちゃんだ。お兄ちゃんがいるから、私は大丈夫。
夏休み最終日は、お兄ちゃんとお出かけしたいなと想いはせた。私たちの夏休みはまだ終わりじゃない。
(20131008)
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