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カタストロフィ

※七話から捏造


「もうおまえと泳ぐことはねぇ」

 負けた。
 それだけでもぐちゃぐちゃになっていた遙のこころに、凛の言葉は槍のように鋭く突き刺さる。

 勝ち負けなんてそんなものは、どうでも良いことのはずだった。遙にとっての泳ぐことは、水に触れて感じる、そういうものだから。そうであったから。

 それをはじめて覆したのが、幼い日の凛だった。
 凛はよくしゃべる、よく笑う、遙とは正反対な素直な子供だった。
 最初はそんな凛が煩わしくてたまらなかったのに、共に過ごした二ヶ月で遙は変えられてしまった。耳障りだった凛の声がすっと入ってくるようになり、屈託のない笑顔をみていると自分まであたたかくなるようになった。
 性格とは裏腹に、凛の泳ぎは遙からみて攻撃的だ。さながら海のなかの獰猛な肉食の鮫のよう。
 隣のレーンで泳げば感じられる、力強いストロークに、遙の脳は焦りをうったえた。
 はじめて他人よりはやく泳ぎたいと、負けたくないと思わずにいられなかった。
 その感覚は不思議ときらいじゃない。
 遙は凛と泳ぐことがすきになった。

 オーストラリアへと渡った凛が一時帰国した時、彼は出逢った頃となんら変わらない笑顔で勝負を持ちかけてきた。
 彼と久しぶりに泳ぐことを、遙は表情に出さずとも楽しんでやりきった。
 凛の水をかく手を隣で感じるのは、抜かされると思うと怖く、でもそれ以上に心地良かった。
 水からあがって、やっぱり凛と泳ぐのがすきだと再確認してからみた彼の顔を、遙は予想していなかった。次は負けないとでも言うのかと思えば、凛は顔を青白くして、唇はきゅっと結ばれていて動かなかった。
 覗きこんでも、視線は交わらない。
 ゆっくりとプールサイドにあがってきた凛にかける言葉を探したが、見つからなくて、そうこうしているうちに彼は遙の横をすり抜けていった。
 別れる直前にみたのは、泣き顔だ。そんな顔を遙はみたかったんじゃない、そんな顔をさせたかったんじゃない。
 なにかが壊れた音が、確かに響いた。

 凛との一件以来、遙は彼の泣き顔を二度とみたくないと思っている。
 みたひとを幸せにできる、朗らかなあの笑顔がまたみたいのだ。
 再会した凛は笑わないどころか常に仏頂面で、雰囲気ががらりと変わっていた。笑顔にするのは難しいだろうし、遙の前では絶対に笑ってくれないのかもしれない。それを理解していながら、なおも遙は凛に笑ってほしいと願っていた。

 不法侵入した鮫柄で行った勝負、遙は"はやさ"を追求して泳がなかった。(スタートしてから途中までははやく泳ごうとつとめたが)
 その結果凛に負けたわけだが、遙はそれを知ってどこかで期待した。自分に勝った凛は笑ってくれると。
 期待ははずれて、それどころか怒らせてしまった。凛は全力の遙に全力で勝ちたかったから。
 勝負は次に持ち越しになった。

 偶然街で凛に鉢合わせしたことで、次のステージは県大会に決まった。
 自分のために泳げと、勝たなきゃ前に進めないと相手に直接言える凛が、遙には少し眩い。
 遙は負けても泣かないように凛に強く言った。彼が泣かないと返したから、遠慮なく勝負ができると思った。
 遙はこの時点で、本気を出して凛に負ける可能性を微塵も考えていなかった。
 それだけだった。凛との勝負の勝ち負けがどうでもいいんじゃなく、負けることはあり得ないというのが前提にされていたのである。

 迎えた県大会、遙は負けた。
 凛は勝って、そして笑った。
 あれだけみたかった笑顔。それなのに遙はその顔をみることができなかった。目を向けられなかった。
 この勝負が終わったら、また凛と幼い頃に戻ったように泳げるようになれる、自由になれるはずだった。
 ここにきて遙は勝ち負けに内心ではこだわっていたと知り、自分が凛に負けて悔しいのだと通過させられた。
 次は勝つと、そう言う前に凛がもう遙と泳がないと告げる。二度と、だ。

ーーこんな時おまえなら"なんて言われても、また一緒に泳ぐ。次は負けないから"って言えるんだろうな。凛、俺はどうすればいい?わからない…わからない。