小説 | ナノ



きみの心臓を征服 V

「あれ、もう出かけるの?」

 屋敷の前の掃除をしていると、凛が車を出すよう指示しているのが見えたので、箒を立てかけて彼に駆け寄った。

「ああ。ハルの準備が終われば出る。…真琴は掃き掃除か」

「そうだよ、花びらが散らばってたから。…凛、ちょっと…」

 彼の襟元のタイが曲がっていたのに気づいて、直す。シックなデザインの上質なそれは、よく似合っていた。
 凛は指摘されたのが悔しいのか、頬をかっと赤くして、ぶっきらぼうに"サンキュー"と言いすてる。

「どういたしまして。…ねぇ、凛。万が一の時はさ……」

 言葉を続けるか迷っていると、凛が俺の二番目に言いたいことを変わりに述べる。

「わーってるよ。ハルをしっかりまもれ、だろ?」

「…うん。それとね……」

 本当に伝えたいことを口にだそうとしたところで時間ぎれだ。
 上品なブルースーツに身を包んだハルが早足で屋敷から歩いてくる。

「凛、行こう」

「はい」

 二人の"行ってきます"がハモってきこえて、俺は"行ってらっしゃい"と手を振ることしかできなかった。
 二人をのせた黒塗りの車はどんどん遠ざかっていく。やがて、完全に見えなくなってから、一つため息をついた。

 凛は言わなくたってハルをまもるだろう。それは知っているから。だから、彼に言いたかったのは、お前自身も大切にしろということ。
 彼は危ういのだ。ハルをまもるためなら、おそらく、自分の命を捨てることすらいとわない。それでハルが助かるならと、喜んで死んでみせるような男だ。
 きっと彼は想像したこともないだろう。自分がいなくなった後を。
 凛。お前がいない世界で俺とハルが笑えると思う?
 笑えないよ、笑えるわけがない。とくにハルは。

 七瀬家の使用人は全員ハルのお父さま、つまりは旦那さまに選ばれた人材だ。ただ一人、凛を除いて。
 ハルが三年前に旦那さまについて参加したパーティーがあった。そのパーティーの主催者、竜ヶ崎家に仕えていたのが当時の凛。彼を目にとらえてすぐに、ハルは旦那さまの袖を引っ張って言ったんだ。"あの執事を俺にちょうだい"と。
 ハルが何かを要求したことはこれが初めてで、それは即座に叶えられた。七瀬家は凛を買いとったのである。
 それからというもの、ハルはべったりとまではいかないが、凛から離れるのを嫌がった。二人はいつも一緒にいる。

 ハルだって、凛に危険が及ぶならば、自分が身代わりになってやりたいと思っているに違いない。
 彼らはよく似ていた。相手を失うのが怖いと、つよく思っている。

 ハルが一目見て凛を望んだこと、二人がお互いを盲目的に必要としていること。どちらも理由は定かではない。
 今はそれを探るよりも、彼らが無事に帰ってくることを願った。

 七瀬グループをよく思わない輩は嫌というほど多く、常に旦那さまやハルはつけ狙われているていっても過言じゃないのだ。

 どうか、元気に帰ってきて。それから"ただいま"がききたいな。


 * * *


 もうすぐパーティー会場につくという地点で、赤信号で車が止まった。
 不意にハルの方を見て、冷や汗が一筋頬を伝うのを感じる。

「ハル!!…タイは」

「今頃気づいたのか」

「まさか、忘れて…」

「大丈夫。ちゃんとある」

 彼がしれっと、ポケットからボウタイを取り出した。
 あるなら最初からあると言って欲しかったのが、正直な感想である。

「…さっさとつけてくれ」

「凛、つけて」

「自分でやれ」

「できない」

「うそつけ。お前がタイつけてんの、何回も見たことあんだけど」

「チッ…バレたか…」

 耳を疑ったけど、今のは舌打ちで間違えないだろう。
 このクソヤロウ。

「バレてるから自分でやれ」

「……凛も真琴にやってもらってた」

 どうやら、俺が真琴にタイを直してもらう場面が見られていたらしい。
 あれはつけてもらったんじゃなくて、直されただけだと言うのもおっくうだ。

「行く前に真琴に頼めばよかったんじゃねぇか」

「違う」

「なにがだよ」

「俺は凛がいい。凛につけてほしい」

「…そーかよ」

 "しかたねぇなあ"と、ハルの手からタイを奪いとれば、彼は満足そうに口角を上げた。