小説 | ナノ



きみの心臓を征服 U

 通常なら食事が終わる頃。
 音をたてずに椅子をひいて、ハルが座ったのを確認すると、朝食をとりに厨房へと急いだ。

「遅かったね」

 たどり着くと、満面の笑みで腕を組んでいる、七瀬家のハウススチュワードたる真琴が立っていた。
 こういう時の真琴は鬼よりも怖い。口はきれいに弧を描いているのに、目は全くもらって笑っていない。バックにはどす黒いオーラが漂っている。
 経験でわかる。素直に謝るのが正しい選択だ。

「悪い。……寝坊した」

 小さく下げた頭に鉄拳がふってきて、ごちんと音をたてた。自分より力強い真琴の拳は生理的な涙が滲むくらいに痛い。
 頭をさすりながら顔をあげると、彼はいつもの穏やかな表情に戻っている。この人の切り替えの早さに、最初は酷く驚いたものだ。

「もう。気をつけてよ、凛ちゃん」

「わかったから、ちゃん付けやめろ」

「はいはい。ほら、冷めちゃうまえにご飯運んで」

「あぁ。…また鯖か」

「うん。けっこう好きみたいだよ」

 鯖の塩焼きがメインの和食を運びつつ、"けっこう好き"だなんてレベルじゃないよなと思う。昨日も一昨日も、記憶があっているのならその前も、一食は鯖の入った料理を食べていたはずだ。ハルだけが食べるのなら一向にかまわないのだが、同じ食事が俺の口にも入るのである。
 ハルは、余程のことがない限り、俺と食事を共にする。その習慣は、七瀬家にきてすぐにできたものだった。
 使用人の朝食は主より早く、初めは食事の後ハルを起こしに行くようにしていた。だけど、ある日俺が今日みたく寝坊して朝食にありつけず、ハルの食事の時に盛大に腹の音を奏でたことがあってからは一緒に食べることになったのだ。
 執事が主と同じテーブルはまずいと反対したが、ハルには無意味だった。"俺と一緒だとなにか都合がわるいのか?"ときかれてしまえば、かぶりを振る以外のことが俺にできようか。


「いただきます」

 二人同時に行儀良く手を合わせた。
 ハルはきれいに胸の真ん中で手を揃える。こういうところは七瀬家にくる前に仕えた主と同じだ。

「昔のことでも考えてるのか?」

 ハルが鯖に伸ばしかけた箸をひっこめて、俺をのぞきこんだ。
 彼はたまに恐ろしいほどに鋭いところがある。そこにはひやっとさせられてばかりだ。

「あぁ。俺が思い出せることなんて少ねぇけどな」

 俺には記憶が欠落している。生まれてから前の主に雇われるまでの記憶がない。
 俺の記憶に関わる話がでた時のハルは、毎回決まって悲しそうな顔をして目を反らす。今もそうだ。
 記憶を実際に失った俺よりもハルが悲観するのは、何故なのかきいたことも、ききたいと思ったこともないけれど。たぶんきかれたくないのだと思う。そういうのはなんとなく伝わってくるから。

「思いださなくていい。…思いださないで」

「……何か言ったか?」

「…言ってない。それより今日のスケジュールは?」

 絶対に何か言われたけれど、これも、きかれたくないのだろうから追及しない。ハルが言いたくなったなら、俺はいつだってきくからさ。

 息を吐き出してから、手帳をとりだして開く。

「本日は、午前にピアノと英語のレッスン、午後は夕方からパーティーがございます」

「パーティー?」

「お忘れですか?葉月ファクトリー開業十周年パーティーです。坊っちゃんは二つ返事でご出席なさると」

「あったな。そんな話」

「やはり欠席にいたしましょうか?」

「いや、行く。…行かないと渚がうるさい」

「さようで」

 面倒くさがりなのに、なんだかんだです優しいんだ、ハルは。彼が行かないと友が悲しむから、苦手なパーティーにも出るという。
 それが面白くて、自然と笑みが浮かぶ。

「…なにがおかしい?」

「なんでもない。気にするな」

 あ、拗ねた。
 俺のご主人さまは本当に可愛らしい。