きみの心臓を征服
絶対に死なせない。 その想いだけが脳内をしめていた。
ものすごいスピードで大型トラックが迫ってくる。俺の両目にはそれがスローモーションのようにゆっくりとうつって、とっさに隣を歩くあいつの身体を歩道の方へと突き飛ばした。
「凛!」
あいつがアスファルトに膝をついて、きいたことのない大声で、つよくつよく俺の名前を呼ぶ。 もう、トラックは鼻の先にまで近づいていた。 俺は死んじゃうのかな。それはいやだ、もっとあいつと一緒にいたい。 でも、でも、あいつが助かるなら………。
トラックにぶっとばされると思ったが、衝撃はいつまでだってもこなかった。恐怖からぎゅっとつむっていた瞳を開けば、見なれた天井とばかでかいシャンデリアが視界へと入る。
「はあっ……はぁ…はぁ……」
ゆめだったんだ、今のは。やけにリアルなものをみせられて、息が乱れてしまう。冷や汗で服がべったりと身体に張りついて気持が悪かった。あれが現実かと錯覚して、あの出来事が過去にこの身におこったことのような、俺の記憶であるような気がしてならない。 "あいつ"とは誰だ。わからないのに、知っているみたいな不思議な感覚がした。ゆめの中の自分が命懸けでまもろうとした、大切な人。"あいつ"、あいつ、あいつ。わからない、……わからない。 ゆめの話なんて普段なら起きてすぐ忘れるか、覚えていても気にもとめないのに、今回は妙にひっかかった。けれど、今は長々と考える時間はない。時計は起床予定時刻を二時間も過ぎていた。
生きてる。その事実に心底安堵をおぼえてから、だるい身体をゆっくりとおこす。 ふらふらとした足どりで、部屋に備え付けのバスルームへと歩いた。雑に服をかごに脱ぎ捨てて、シャワーを素早くあびると、シャツに腕を通していく。 俺は職業上着用が義務付けられている、この執事服というものが嫌いだ。かっちりしていて、窮屈だから。以前着崩したところ、ハウススチュワードにこっぴどいお叱りを受けた経験から、きちんと身にまとう他ない。 着替えを終えて再び目にした時計はさっきよりも二十分ほど進んでいた。 さあ、早く坊っちゃんを起こさなきゃいけない。
二回ノックをしてから、鍵をあけて部屋の一番奥にあるベッドへと向かう。ダブルベッドを一人で占領し、おだやかに寝息をたてる少年が俺の主、七瀬遙だ。 世界的企業グループである七瀬グループ。その総帥の一人息子な彼は正真正銘のお坊っちゃま。俺は彼専属の執事として、七瀬のお屋敷で働いている。
「遙坊っちゃん、起床時間でございます」
俺の声に反応して、彼のこめかみがぴくりと動いた。三年以上もの間毎朝起こしているため、狸寝入りはお見通しである。
「坊っちゃん……ったく。…ハル、起きろ」
二人きりの時限定で呼ぶ名前を口にすると、今まで背を向けていた彼が寝返りをうってこちらを向く。そして、欠伸をかみ殺して、ゆっくりと目を開けた。
「凛がちゅーしてくれたら起きる」
「なにばかなこと言ってんだよ」
ハルは時々とんでもない問題発言をする。だから、なれたつもりでいたけれど、ちゅーだなんて言われたらさすがにびっくりだ。心臓に悪い冗談は勘弁してほしい。
「しないならいい。起きないから」
どこまで本気だったのかは知らないが、冗談ではなかったらしい。彼は不満そうに唇を尖らせた。
「はぁぁ。頼むから起きろよ」
「じゃあ、ちゅー」
「いやだ」
俺が言い切った途端にハルが掛け布団に潜り込む。困った人だよ、本当に。 キスするまで意地でも動かないとでもいうのだろうか。
「…どうしてもとおっしゃるのでしたら、どうぞ、ご命令を」
ハルの顔が布団から半分だけ出てきた。 あまやかしすぎか。違うな、俺は正直なところ満更でもないんだ。彼とのキスが。
「…命令だ。俺にキスをしろ」
「かしこまりました。坊っちゃんのおおせのままに」
ベッドのそばに方膝をついて、掛け布団をずらしてハルの顔全部が見えるようにする。それから、彼の唇に己のそれをほんの一瞬重ねた。
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