小説 | ナノ



アルバイト三十四日目

朝の6時。HOMRA営業時間前の伏見はカウンターを布巾を手に掃除していた。
「伏見、もうええよ」
同じく掃除に勤しんでいた草薙が布巾を流しで洗いながら言う。
「はーい。…あ、布巾片付けたら洗濯物干してきますね」
「それは構わへんけど、ちょい待ちい」
布巾を絞って置くと、草薙は二階へ上がって行った。伏見は自分の布巾を洗い終えてから、言われた通り草薙を待つ。
――草薙さん何かあんのかな?
考えても特に思い至ることはなく、浮かぶのはハテナマークだけだった。
すぐに水色の封筒を持って降りて来た草薙は、伏見にそれを差し出した。伏見は受け取って中を覗き込む。
「お金…?」
「それはお前の給料や」
その言葉を聞いた伏見は顔色を変えて、草薙に封筒を返そうと押し付ける。
「受けとれませんよ、こんなお金。十万もあるじゃないですか」
「伏見のお陰でお客様が増えて、店の売上も上がっとる。それはお前が貰ってええんよ」
「でも、俺は居候だし…家賃が…」
「いいから。な。」
草薙がしっかりと伏見の手に封筒を握らせる。
「それと、今日伏見は休みや。八田ちゃんとでも遊んできぃ」


伏見が電話をかけて、八田がそれに出たのは五コール目を過ぎた時だった。
「な、んだよ…」
「あれー、美咲ー。寝てた?」
寝ぼけた様な声にプッと笑いながら伏見はきく。
「そうだけど。……って、今日もしかして学校か?」
「ちげぇよ。休み」
「そうか。……どうしたんだ?」
「今から三十分以内にHOMRAの近くのコンビニの前な」
「はぁあ?…俺、起きたばっか!」
「じゃあ、待ってるから」
八田の慌てた様な声は無視して、構わず電話を切る。
――三十分以内に来るかな?


電話をかけてから調度三十分後。午前十時に伏見はコンビニの前に着いた。
「猿比古ー!」
「美咲!…早かったな」
流石に三十分じゃ無理だろうと予想していたが、八田はすでに来ていて伏見に駆け寄って来る。
「お前が三十分以内ってゆーから急いで来たんだぞ」
「そりゃどーも」
「てかお前さ、休日なのに何で制服?」
私服の八田に対して、伏見はいつもの高校指定の制服だった。伏見は家を失ったせいで、私服なんて持ち合わせていないのだ。
「持ってないから」
「ふーん」
てっきり、何で持っていないかと問われると思っていた伏見は拍子抜けした。八田なりに何かを察したのか、単に興味がないだけなのか。
「…………」
「…そーだ、サル、俺に用事あんだろ?」
「用事?…あー、美咲とデートしようと思っただけ」
「ででで、デート?バカじゃねぇ」
「美咲顔あかーい」
「ほっとけ。…あ、悪ぃけど先メシ付き合ってくんね?朝メシまだなんだよ」
「いいけど」
ハンバーガー食いてぇと言った八田は赤い自転車にまたがった。
「自転車で来てたから早かったんだな」
「まぁな。だって、間に合いそうになかったし」
「…お前さ、俺は自転車じゃねぇんだけど」
「見りゃわかるよ」
「美咲…俺に走れって言ってんの?」
八田がかぶりを振って、自転車の後方を指さした。どうやら後ろに乗せてくれるらしい。


某ファーストフード店のレジで八田が財布から百円をつまみ上げる前に、店員の手に百円は乗った。
「え?」
百円を出したのは八田の後ろにいた伏見の手だった。
「俺が払う」
「べっつに俺、特別金に困ってるんじゃねぇよ」
「知ってる。いいから払わせて」
伏見がそう言えば八田はサンキューと財布をしまった。
先程払った百円は、今朝受け取ったばかりの給料だった。伏見はただなんとなく、最初に使うときは八田の物にしようと決めていた。どこか満足そうな伏見の表情に、八田は右手にハンバーガーを持ったまま首を捻るだけだった。


「美咲あったかい」
所謂二人乗り中の八田と伏見。自転車をこぐ八田の背中に、伏見は抱きついてお腹に腕を回す。
「ちょ、おい、離れろって」
「やだ」
そう言えば八田は、伏見を無理矢理引き離す様なことはなく、大人しく抱きつかれていた。
他人とこんなに近づくのは伏見にとってかなり珍しいことだ。近づきたいと思う、一緒にいたいと思う人なんていなかった。なのに、今の八田との距離を心地よく思っている自分がいる。
――二人乗りなんて初めてだ。
回した腕の力を少し強めると八田が自転車のスピードを上げた。
「早すぎ」
「き、急に力いれっからびっくりしたんだよ」
――美咲と一緒にいるのは嫌いじゃない。
「こんな休日もいいモンだな」
そう言う伏見に八田は小さく、そうだなと返した。