小説 | ナノ



アルバイト一日目 〈後〉

八田美咲は口に手をあてて欠伸を溢した。ずかずかと歩道を進む彼を、人は少なからず避けて歩くため、そこには自分の道ができた様な気がして、八田は唇の端を上げた。
「高校か」
中学の三年間、勉強より喧嘩に明け暮れる日々を送った八田が地域内で一番の偏差値を誇る有名高校に進学を果たしたのは奇跡としか言い様がなかった。勉強を親身になって教えてくれた人と、確固たる意志が無ければなし得なかったと自負している。そもそも八田が高校に進学しようと決めたのは学生生活を謳歌したいという希望からだ。八田の中学生時代は前記にもある通り喧嘩三昧でろくでもない時間だった。自分から進んで仕掛けている訳でもないのに、相手は次から次へとやってくる。そんな毎日にうんざりしていた。教師からは不良扱いで、疎まれていたのも気にくわなかった。高校でやり直してみたいと、気まぐれにもそう思ったのだ。入学した高校を志望したのは、中学だった当時、同じ中学から八田一人だけで好都合だと感じた。自分を知らない人達の傍でならやり直せる気がした。
――それにしても、ついてないぜ。
高校でのクラスの席は、窓側の一番後ろだった。隣はどんな奴かと右を見たら、となりの男子生徒の顔は彼の長めの前髪のせいでよくわからなかった。だが、その姿は見覚えがある気がした。ぼんやりと過ごしたホームルームの最後にそいつの正体がわかることになる。担任の女が言った。
「立候補が無いので、委員長は首席ですし、伏見君にお願いしますね」
伏見。聞いたことが確かにあった。入学式で、だ。新入生代表挨拶を行った生徒。その名前が伏見猿比古だった。珍しい印象を受けたので、覚えている。伏見は委員長が嫌みたいで、返事の変わりに小さく舌打ちをしていた。仲良くなれそうにないタイプだと、苦手意識が芽生えてしまう。成績いい奴となんてつるめそうにない、と落胆した。隣が明るくて調子のいい奴ならどんなに良かったか。
――それにしても、首席……。
入試を一位の成績で突破したということだ。合格したと言っても、補欠合格の八田とは天と地程の差があるのだろう。
――まー、気にしないのが一番だろうな。
そこまで考えて、八田は自分が目的地を通り過ぎたことに気づく。慌てて30メートル引き返した所にそれはあった。HOMRA。八田の目的地だ。カフェのマスターは休業日だと言っていたが、きっと閉まってはいないだろうとドアノブを捻る。案の定ドアは開いた。
「…いらっしゃいませー」
瞬間、八田の動きが止まった。入店した八田を迎えたのはいつものマスターの笑顔ではなく、どちらかというと不機嫌そうな表情をした人だった。入る店を間違えたかと勘違いしかけたが、奧でヒラヒラと手を振る存在を認めたことでここがHOMRAなのだと知る。
「草薙さん」
困ったという視線を受けた草薙はカウンターに肘をついて八田を見た。
「八田ちゃん、いらっしゃい」
「…いらっしゃいじゃないっすよ。女なんか連れ込んでどうなってんすか」
「この子はバイトや。そんなんやない」
草薙は言って、可笑しそうにアルバイトの店員、伏見を見た。伏見は大きく舌打ちして、ふいと顔を背ける。
「綺麗な顔しとるから、無理ないわぁ、堪忍したり」
「……女顔っていいたいんですか」
「おー怖い、怖い。そんなに睨まないどいてや」
二人を前に、八田は目を瞬かせ、伏見を凝視している。
「お前、男…?」
「……男で悪かったな」
「別にそうは言ってねぇよ。俺、女苦手だし。……こっちこそ、悪かった」
八田の謝意が伝わっているのかいないのか、伏見は踵を返し店の奧へ消えた。
「はぁぁ。なんだよ、アイツ」
八田は面白くなさそうに唇をとがらせる。
「今日雇ったばっかりやから、接客の練習中みたいなもんなんや。悪く思わんでやり」
草薙は八田を席に座る様促し、テーブルにグラスに入ったオレンジジュースを置いた。
「はい。あ、飲み物、ありがとうございます」
「ええよ。八田ちゃん常連さんやし。……それより、どうやった?入学式は」
「特にどうってことなかった……そういや、隣の席が学年首席の野郎なんすけど、どーもいけすかねぇってか」
「ふーん」
後ろからの突然の声に振り返ると、先程までいなかった伏見が見下ろしていた。
「脅かすなよ」
「別に」
言って、伏見はふっと笑った。
「何が可笑しんだ?」
「別にぃ」
「くそ、訳わかんねぇ。調子狂うな。……草薙さん、今日はもう帰ります」
足早にHOMRAを去って行く八田を伏見は相変わらず笑ったまま、草薙は驚いた顔で見送った。
「伏見、八田ちゃんがどうかしたんか?」
「いーえ。ただ、俺の話してたんで」
草薙は察したらしくあぁと声を上げた。
「もしかして、八田ちゃんの隣の席のやつって伏見、お前さんが……?」
言われてみれば伏見と八田ちゃんの制服一緒やったと、草薙は呟く。
「そうですよ。八田とかいう奴、俺のことクラスメートだとはこれっぽっちも思っちゃいないみたいでしたけど」
伏見はため息をつき、眉をしかめた。
「八田ちゃんはアホなところあるからなぁ」
「……草薙さん、アイツが気づかなかったのは髪型と服装のせいだと思うんですよね」
「ま、そうやろな」
にっと、伏見が良い顔で笑う。
「じゃー、髪型いじるの、店で働く時だけにして貰えません?学校には普通の髪型で行きたいんで」
「かまわへんけど、なんでや?」
「別人と思わせとこうかと」
めんどくさくないのかと、問えば、伏見が楽しげに、
「その方が面白いじゃないですか」
「さよか」
草薙は口を付けられていないオレンジジュースのグラスをぼんやりと眺めた。