アルバイト一日目 〈前〉
「ありえない」 口に出さずにはいられなかった。 家がない。どこにもないのだ。恐らく家があったであろう場所は、今はただの荒地と化していた。 明後日の方向を見つめて、棒立ちを続ける伏見猿比古は、ついさっきまで高校の入学式に出席していた15歳の少年だった。 「何の冗談だよ」 ――俺が何か悪いことしたか。いやしてねぇ。新入生代表挨拶までしてやったんだぞ。 確かに家がそこにあったはずだった。それがどこにもない。はじめからなかったかの様に跡形もなく消えていた。 伏見がムカついて地面を蹴ると、紙がふわりと宙を舞った。今まで足で踏みつけていたらしかった。その約B5サイズ紙の中央に目立つ様に書かれている部分を読み上げる。 「……伏見家は本日をもちまして家族を解散いたします」 その紙の内容を完結に言えば、縁を切るということだ。すぐに理解できず、思考が停止しそうになる。 ――ふざけんな。俺は今日から高校なんだよ、ピカピカの一年生なんだよ。 住んでいた家はなくなり、そして親も息子を一人置いていなくなった。 なにもかもが最悪だった。舌打ちして見上げた空は皮肉にも晴天で憎たらしい。 「くそったれ」 もう一度舌打ちをしたところで、この怒りが治まるとは到底思えなかった。
伏見は特待生として入学した生徒で学費は必要ない。でも、生活のためにはお金がいる。伏見には家も服(制服だけはある)もないのだ。食べ物もないと生きていけない。 ――働かないと。 できるだけ多く働きたかったが高校を辞めるのは論外だった。伏見の夢は東京法務局戸籍課第四分室に就職することで、それには高学歴が求められる。 まずはバイトを探そうと思ったが、道の端にしゃがみこむ。 ――あー、腹へったなー。金ほとんど持ってねぇんだよ。 全財産は千円札一枚と少しの小銭。これを今使ってしまっていいかわからなかった。
「中坊がこないなとこで何してんのや?」 柔らかい声だった。伏見の前にはビニール袋を両手にかかげた青年が立っている。顔を上げたが、相手がサングラスをかけているせいで、目が合っているのかはわからない。 「別に」 「暇なんか?」 何もすることも、やりたいことも、できることもなかった。ため息をついて、言う。 「暇ですよ。困るくらい暇」
「似合っとるよ」 男は伏見を頭から足まで見て、うんうんと頷いた。 男の名は草薙出雲というらしい。暇ならと、伏見は、しばらく歩いた場所にあるHOMRAというカフェに連れてこられた。草薙が一人で経営しているそうだ。聞けば彼は伏見に、働いてくれへんか?と言う。バイトを探していた伏見には好都合だったので、その申し出を受け、早速カフェの制服を着せられている。 「でも、髪型がしっくりせぇへんな」 草薙は呟くと、伏見を座らせ髪をいじり始めた。他人に触られる感覚はくすぐったいが、悪くはないと思うのだ。 「伏見ー、家はどれぐらい離れてんや?」 伏見の髪にスプレーを吹きかけながら、草薙が聞いた。伏見は家のことを思い出し舌打ちする。 「ありませんよ」 「ない……?」 「はい。家はなくなったんです」 「家族は?」 「解散しました」 伏見の受け答えに目を丸くした草薙は暫くして、手をポンと叩いた。 「そんならウチに住むとええ」 「……ここに、ですか?」 「せや。二階の俺の部屋の隣で良かったらやけど」 こんなに都合よく進む話があるだろうか。いや、あっていいのだろうか。わからないけど、伏見には頷く他に術はなかった。 「家賃はどうすれば……?」 「どうせ空いとる部屋なんやし、気にせえへんでええよ」 「……お世話に、なります」 キャラじゃないなとは思ったが、流石に少しだけ申し訳なくて、小さく頭を下げた。草薙は人好きする笑みを見せる。 「ここに住むなら、ぎょうさん働いて貰うで。………よし、できた。…鏡見てみぃ」 髪型をいじり終わった様で、手鏡を手渡された。それをそっと覗き込む。そこには見違えた自分が映っていた。両サイドの髪は外側に跳ねさせ、前髪は斜めに分けられていて前より邪魔じゃない。自分の外見にこだわりは特になかったが、これでもいいかと感じるくらいには気に入った。 「伏見折角キレーな顔しとるんやから、出さなきゃ勿体無いわ」 「はぁ、…どうも」 「これから毎日やったる」 「……勝手にどうぞ。…今更ですけど、ここカフェであってますよね」 「そうや」 伏見は店内を見回した。今座っているカウンターには、全部で8つの椅子があり、二人ずつ腰かけられるテーブル席は5つある。今は伏見と草薙の二人以外はいないため、ほぼ空席だ。 「お客さんいませんね。…人気ないんですか?」 「あるわ。今日は休みなんや」 「そうですか。じゃあ、俺が制服着た意味なかったんじゃありません?」 舌打ちをして草薙を見上げた。 「サイズが合うかの確認ちゅうのと、きっと一人客が来るからや」 「休みなんすよね?」 不機嫌な伏見をたしなめる様に笑うと、草薙は小さく顎を引いて肯定した。
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