※一期と二期の間


酷く懐かしい雰囲気で目が覚める。ふわふわとした柔らかい温度と匂いが辺りに立ち込めて、その空間全体が日射しに照らされていた。心地良い温度に、再び意識を手離そうとする刹那に声がかかる。

「よう、起きたか」

聞き間違えることはない。飄々として、そしていつも自分を子供扱いして世話を焼く人物と言えばこの男しかいない。振り返ると、そこには案の定ロックオン・ストラトスことニール・ディランディが立っていた。

「珍しく熟睡してたな。よっぽど疲れてるんだろ」

刹那は自分の膝に乗っているタオルケットを見てようやく、今まで自分が座り心地の良さそうなソファの上で寝ていたことに気がついた。長い時間寝ていたのか、体の節々が少し痛い。だが、その割に疲れは取れたらしく些か体の調子が良い。

「いつから寝ていた?」

「結構前」

「………」

「一時間は確実に寝てるだろうな」

「そんなに寝ていたのか」

一体どういう経緯でここで寝始めてしまったのか、その辺りの記憶が非常に曖昧だった。

「刹那、お前ちゃんと飯食ってるか?」

「は?」

「ただでさえ小さいっつーのに、そんなにひょろひょろでどうする」

「なんだと」

「チビだし細いし生意気だし、全くお前は」

「おい」

「とりあえず、飯作っておいたから食えよ。ちょうど出来上がったところだしな」

心外な言葉に腹を立てる刹那の反応には目もくれず、ニールは台所へ消える。散々小馬鹿にされた刹那はニールが目の前に来たら一発蹴ってやろうかと反撃方法を悶々と脳内でシュミレーションする。機会を窺う刹那の前に、ニールは青い線で綺麗な文様が描かれている白磁の皿を置いた。

「なんだこれは」

「俺の故郷の伝統料理だよ。コルカノンっていうんだ」

「…」

「マッシュポテトにキャベツとベーコンが入ってるサラダだ」

「やはりジャガイモか。要らない」

「は?なんでだよ。せっかく作ったんだぞ」

「他にはないのか」

「わがままめ。他にはチャンプとボクスティがある」

「…またジャガイモか」

「さすが、よくわかったな」

「要らない」

刹那の拒絶にニールは怒るでも悲しむでもなく、やれやれと肩を竦めて苦笑いした。

「こんの聞かん坊め。ちゃんと飯を食わないとだめだろ」

遠慮も容赦もなく頭を掻き毟るニールの手で、刹那の髪の毛が大きく乱れた。視界で髪の毛が行き来し、果ては猫っ毛が瞳にちくりと刺さって痛い。全くこいつは好き勝手に人の頭を撫でまわしやがって。というような感情が沸々と大きくなり、刹那は声を張り上げた。

「やめろ…!」

しつこい攻撃が鬱陶しくて仕方がない。身を捩り、ニールの干渉を振り払おうと手を前に突き出した。

「−!!」

が、己の手は空を切った。伸ばした先には何もなく、頭の上で乱暴に振舞っていた掌も消えている。ニールの温度も温かかった日射しも柔らかな空気も、冷たく無感情で湿っぽいものに変わった。

「……夢?」

刹那は狭苦しい車のシートで横になっていた。固く、冷たく、自分の体温をどんどん奪っていく。体が冷え切っている。視界は薄暗い。

「ロックオン?」

さっき感じた体温は、温かさは、一体。夢にしてはいやに現実的過ぎた、頭を掻きまわす手の大きさ、指の感覚、声。ついさっきあった出来事のように感じるのに。それを思い返す度に遥か昔のことのように、何もかもが霧散していくような気がしてならなかった。冷たいシートに身を横たえたまま、刹那はうすぼんやりと明るい空を見上げた。陽が昇った。





心身ともに疲弊しているためなのか。休息、或いは少しばかりの救いが必要なのかも知れない。だが、今の自分がこれを必要としているかと問われれば首を傾げざるを得ない。

「ほら、食えよ」

皿から立ち上る湯気。今それを食べたら心底身に沁みるんだろうとは理解出来たが、食指が動かない。現時点の刹那にとっては不要なものなのである。

「刹那あ、お前一日何食だ」

同じテーブルに座り、アイリッシュシチューを食べるニールを刹那は見つめていた。刹那の目の前にも彼と同じものが用意されていたが、前述の通り手をつけていない。

「日によってまちまちだ」

「なんだそりゃ」

「二食だったり一食だったりするな。食べない日もある」

「この前言っただろ、ちゃんと飯食えって」

「…たまに失念する」

「あのなあ…失念する、じゃねえって。腹減れば普通は食べるだろうが」

「…そういうものだったか」

「おいおい」

なんだその無関心な態度は。ニールは父親が子供を窘めるような口調で刹那に語りかける。栄養失調になるぞ。傍に仲間がいれば助かるかも知れないけどな、お前今ひとりで行動しているんだろ。倒れたらどうするんだよ全く。知ってるか、人の体はなビタミンCとかを生成出来ないんだぞ。下手したらお前死んじまうぞ。と、途中から捲し立てるようにニールはぼやいた。

「…気が進まない」

「生きるのに気が進まないもクソもあるか」

「食事しながらクソとか言うな」

「言いたくて言ってるんじゃなっつーの」

「なら言わなければいい」

「お前さんが言わせてるんだって」

ため息をつきながらニールは皿にアイリッシュシチューを盛った。二杯目である。ラム肉に大きめに切った野菜が皿の中に転がるさまがよく見えた。スプーンの先でジャガイモを割って、片方を口に運ぶニールの様子を刹那は観察する。彼の前に置かれている皿からは未だに湯気が立ち上っている。

「別に食べなくても問題ない。本当に空腹だと感じたら何か口にする」

「お前、そんなんだから顔色悪いんだな。この間よりずっと酷いぞ」

「そんなことはない」

「あるな。ちっとばかり身長が伸びたって、相変わらずもやしみたいだ」

「もやしだと」

やたら気に障る言葉を投げつけるニールの顔めがけて熱々のシチューが入ったこの皿を投げつけてやろうかと思った刹那だったが、その思案は挫かれる。

「刹那。お前、やせっぽっちだぞ」

そう言ったニールは刹那をぎゅう、と抱き寄せた。予期せぬニールの行動に面食らって、刹那はただ硬直していた。やせっぽっち。その言葉が頭の中で反響して、何度も何度も耳元で聞こえた。とても悲しい響きに感じられる。

「お、俺は」

ニールの背中に手を回して腕を伸ばす。無性に彼の体温を、もっと感じたかった。ほんの少しの間でいい。体温を、匂いを、感じていたかった。

「ニール」

それなのに。

「ニール」

刹那の腕はまたしても空を切っていた。触れようと手を伸ばしたら、また消えてしまった。刹那から接触を試みようとすると、ニールはふわりと消えてしまう。消える。いなくなる。感じていた彼の存在が薄らいでいってしまう。夢を見ているのは分かっている。分かっていても、空しい。捕まえようとしたらするりと腕の、手の、指の隙間から擦り抜けていってしまう。喪失感からぐったりと頭を垂れる刹那は、深く息を吐いた。心臓が大きく脈打っている。全身に血を送ろうと、鼓動を続けている。当たり前のことが何故か新鮮で。顔を上げて、何もない虚空を見つめて、夢の中でニールがぼやいていたことを反芻する。そして、せきたてられるように車を飛び出して走った。





温かい日差しが降り注ぐ。またか、と思いつつも悪い気はしない。ニールと二人きりの空間にいるのはこれが三度目だ。

「うーん、別人まるでみたいだな」

「そうか」

いつものようにジャガイモ料理で刹那をもてなすニールは、テーブルに皿を置きながら驚いていた。不健康だった顔色もよくなり、いくらか肉付きもましになっている刹那はその言葉に答える。

「少しずつだが、食事を摂ることにした」

「おう、そりゃいいことだ」

「食べると、力が出る」

「そうだろ。分かればいい。もっと食え」

「…ジャガイモ以外に何かないのか」

「文句言うな」

ジャガイモばっかだけどバリエーション豊かだろ?とにやりと笑うニールは、指についたサワークリームを舐めた。それにつられて、刹那は皿からマッシュポテトを取って口に運んだ。こってりとしている割には後味がさっぱりしている。体の中に、細胞の一つ一つに栄養が入ってくるのを感じるようだった。咀嚼した固形物が喉を通る感覚が久しい。

「美味いだろ」

「ああ。そっちのシチューも少しくれ」

今日は牛肉使ったんだ、とシチューを皿によそい刹那に手渡した。黙々と料理を頬張る刹那の様子を眺めるニールは、優しく微笑んでいる。

「生きるために疎かにするんじゃないぞ」

「ん?」

「しっかり食って大きくなれって言ったんだ」

「もう子供じゃないんだ。食べた分だけ成長するとは思えないが」

「まあそれもそうか」

ニールはそう言って身を乗り出して、刹那の頬に触れる。

「もう、大丈夫だよな」

「え、?」

「大丈夫だよな」

「一体、何がだ」

頬を、ニールの掌が包み込む。温かく、大きな手だ。慈しむようなニールの雰囲気に刹那は胸が苦しくなった。これは夢だ。分かっている。俺を励ますためにこうしてくれているのか。俺が挫けないように、こうして支えていてくれるのか。

「に、ニール」

ニールは俺が触れたら消えてしまう。伸ばしかけた手が空中で止まる。感じていた体温が消える空しさは何度も体験したいものではない。現実に引き戻されたときの孤独感が大きすぎる。このまま、ニールに頬を包まれて体温をずっと感じていたい。臆する刹那を前にニールは、にこりとまた微笑む。殊更優しく芯の通った声で言った。

「刹那、またな」

救われるようだった。たった一言で、刹那の迷いは晴れた。迷わず手を伸ばして、ニールの頬に触れる。体温と頬の弾力を感じると同時に、二人を照らしていた日差しが強くなって視界が眩しくなる。目が開けていられなかった。

「あ、」

反射的に目を閉じた。それでも尚眩しい。閃光は刹那の平衡感覚を麻痺させた。

「ニール…!」

飛び起きた刹那の視界は、少しばかり煌いていた。瞳に溜まった涙に光が乱反射している。その大粒の涙が頬を伝い、雫となって顎から滴り落ち服に染みを作った。眩い光の中で最後に触れたニールの温度は、消えずに残っていた。