そこにあるけどそこにない






きっとこの気持ちを言葉にすることなんてできないのだと秋山にはちゃんとわかっていた。けれどただ凡庸な言葉を当てはめるのだとしたらきっと「恋」なのだということもちゃんとわかっていた。もしかしたら「愛」かもしれない。けれどそんなありきたりな言葉ではきっとうまく伝えることができない。だから人は口を閉ざすのだ。その言葉に似つかわしくなるまで熟成させて、自分の中でゆっくりと育てて、そうして、うまくいったならばちゃんと言葉にして、うまくいかなければそっと胸のうちに秘めてしまう。秋山はいつもそうだった。いつだって、うまく言葉にできない。ただただ苦しい。秋山が口を開くときはいつだって「苦しい」だった。

「秋山さん」

伏見にそう呼ばれたとき、秋山は胸が苦しくなるような、うなじのあたりが焼け付くような、そんな心地がした。たった二人きりの残業だった。今日はどうして、秋山には難しい仕事が舞い込んできていたし、伏見にはいつものように堆い書類の山が押し寄せていた。ただそれだけのことなのに、オフィスは真っ暗で、ただ伏見と秋山のデスクの場所だけがぽっかりと蛍光灯に浮き上がっている。カタカタと鳴るキーボードに乗せてさざめくように、伏見は秋山を呼んだ。なんだか仕事が終わってしまったみたいだった。仕事中なら伏見は秋山をただ「秋山」と呼ぶ。だからきっとこれは仕事の話ではない。

「なんでしょう」
「二人ですね」
「・・・そう、ですね」
「なんか、楽しい話でもしますか」
「えっと・・・伏見さんがそんなこと言うの、めずらしいですね」
「なんとなくです。今日は、なんだか気分がいいんです」

伏見はだいたい仕事が終わったところだったらしく、書類の角を揃え始めた。時計は真夜中と呼ぶには随分早い時間を指している。秋山の仕事も、もう少しというところだった。あとはデータを推敲して、媒体に保存するだけだ。けれど、それだけの作業に身が入らない。胸のあたりがぎゅっと締め付けられて、苦しかった。

「秋山さん、まだ仕事終わらないんですか?」
「あ、いや、あと、もう少しです」
「そうですか」
「はい」

きっと恋だとか愛だとか、そういうありきたりなことばに当てはめるのはずっと簡単だ。この胸の苦しさを「トキメキ」と言ってしまえばそれまでだし、うなじのひりつくような熱さも「緊張」と言ってしまえばそれまでだ。けれど、そうしてしまったら、なにか大事なところを削ぎ落としてしまうような気がして、いけなかった。秋山はきっとずっと探さなければいけない。このどうしていいかわからない、叫びだしてしまいたいような、自分の胸を差し貫いてしまいそうな衝動にふさわしい、重苦しくて、熱くて、野暮ったいような言葉を。

「もしも」

伏見は襟元をだらしなくした。普段からだらしないのに、まだ窮屈だったといわんばかりに、襟をぐしゃぐしゃにした。鎖骨が綺麗だと思った。神様が完璧なかたちを伏見に与えたように、綺麗だった。それは美しい曲線とまっすぐな固さをして、適度な柔らかさの透き通るような肌につつまれていた。また、秋山は苦しくなる。ずっとずっと苦しい。深海に閉じ込められているような気がした。もう肺が息もできないと、悲鳴をあげている。

「もしも、俺を好きにしていいって言ったら、秋山さんどうしますか」

息がとまったような気がした。今までに聞いたことのないような音を、心臓が立てている。ほんとうに、そうしていいなら、きっと秋山は伏見のことを殺してしまうかもしれなかった。それくらい苦しかった。狂おしいほどに、苦しかった。けれどそれをうまく言葉にできないから、もどかしい。どうしたいのかわからないから今こうして苦しんでいるのに、伏見はそれを嘲笑うように、デスクに座った。ほっそりとしている。抱きしめたなら折れてしまいそうだ。秋山は伏見の背骨を折ってしまいたいと思った。その胸を支える骨が全てぐしゃぐしゃになるまで、抱きしめたいと思った。けれどほんとうにそうしたいのかというと、そんなことはなくて、伏見をぜったいに傷つけたくはなかった。ずっと矛盾している。どこまでも矛盾している。そうしてぐるぐるに綯交ぜになって、出口を探している。

「秋山さん」
「お、れは・・・」
「どうしたいんです」

もう秋山の内心なんてとっくの昔に見透かされているようだった。けれど秋山のこのくるおしいような気持ちはまだ言葉を知らない。それがいけなかった。だから秋山は言葉をしらないように、口をつぐんで、俯くしかできない。

「わからないんです」
「は」
「どうしたいのか、わからないんです」
「なにそれ」
「だって、この気持ちにはまだ名前がない」
「どういう意味です」
「この気持ちを、気持ちを言っていいかすらわからないんです。ただただ苦しいんです。言葉にできないくらい、苦しいんです」
「中学生かよ」
「・・・すみません」

伏見はなんだか興ざめしたというように、舌打ちをした。けれど、そうしてから、思い当たるふしがあるのか、少しだけ、目を細くした。疲れたような顔だった。だから秋山も「ああ」とわかってしまった。伏見もきっと、誰かに「こう」なのだ。けれどそれはきっと秋山じゃない。わかってしまうから、辛かった。

「辛い」
「俺も辛いです」
「どうしていいかわからない」
「そうです」
「言葉にできない」
「できません」
「・・・中学生みたいだな」
「・・・でも、中学生ならもっと、素直に言葉にできるはずです」
「そうでもなかった」
「そう、ですか」

きっとこの感情に名前は、たしかにあるのだけれど、あってないようなものなのだと思った。ただただ苦しい。こんなのは愛でも恋でもない。きっと、きっと、母親の胎にでも忘れてくるべきものだった。それでも、秋山は苦しかった。伏見も苦しかった。ただただ、辛かったのだ。舐めあうための傷だけが、そこにあった。


END


由夜さんへ!
うん?うん。
ヘタレ全開の秋山でしたが、うん・・・
秋伏というにはなんかこう首を傾げなければいけない出来で申し訳ないですはい・・・

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -