水彩度





※Twitterでフォローさせて頂いてるぷちさんが呟いたネタをもとに書かせていただきました。色々許可してくださってありがとうございます。







日高はその日、いつものようにペンを握った。どこにでも売っているありきたりな黒いボールペンだ。もう二度と消せないように、日高は日記を書く。けれど日記帳だけはありきたりではなかった。それはちゃんと選んだ日記帳だった。いつか二人で買い物へ行ったときに見つけた、二ヶ月分だけ記録できる日記帳だった。前のページには当たり前のような顔をして昨日の日記が書いてある。ただぶっきらぼうに「タケとソバをたべた。おいしかった。」とだけ書いてあった。一頁もちゃんと一日分のスペースが用意されているのに、日高はたった二行しか使わなかった。これから書く文章もきっとそれくらいだ。日高は少しだけ、呆然としたような面持ちをして、そのまっさらなページに「楠原がいなくなった」と書いた。



「お前は馬鹿なんだから、せめて日記くらいちゃんと書きなさい」

日高が夏休みの最終日にあわててちびた鉛筆を走らせていると、真っ白な日記帳をみつけた母親は呆れたような口調でそういった。小学のときだ。自分の可愛いはずの息子に面と向かって「馬鹿」と言う親も珍しい。けれど日高はそのとき「馬鹿」という言葉の意味もよくわからないくらい重症だった。馬鹿というのは元気という意味だと思っていた。だからきっと、親のほうも馬鹿は馬鹿なりに元気で明るく育ってくれればそれでいいと思っていたらしかった。事実日高はそういうふうに育ったし、公務員という職業にもつくことができた。けれど先の台詞を溜息まじりに言われたとき、日高はどうして、反発したくなった。宿題に押しつぶされて気が立っていたのかもしれない。

「だって、だいたいわかるから」
「そう、じゃあ、8月1日にアキラはなにをしてたの」

日高は少し考えてから、「多分サッカーしてた」と答えた。それは多分正解だった。

「毎日だものね。でもね、アキラ、あなた同じ日を何日も繰り返してるわけじゃあないのよ。その日はサッカー以外にも、なにか素敵できらきらしたことが、あったかもしれないじゃない。その日にしか、そのときにしか見えないものって、たくさんあるものよ。だから、アキラ、そういうことをちゃんと忘れないように、いつでも思い出せるように、お前はばかだから、せめて日記くらいつけなさい」



ベッドに横たわって、日高はなんとなく幼時に母に言われたその台詞を思い出していた。小学生の日高はそのとき、きらきらするものというのはなんだろうと考えた。それから、次の日に渡された一年間記録できる日記帳に、とりあえず「サッカーした」と書いた。その文章はただただ鉛筆の匂いと色をして、くすんでいるような気がした。けれど日高はまぁいいかとそれを閉じたのだ。そしてその次の日も、同じ文章を書いた。次の日も、次の日もそうしてから、なんとなく見返してみたときに、なんだか自分がとてもつまらないような気がした。けれど次の日に、雨が降った。雨が降った日はサッカーができない。日高はぶすくれながら家に帰った。帰る途中になんとなく木の葉が赤く染まり始めているのを見つけた。紅葉という言葉が出てこなかった日高は、木が病気にかかっているみたいだと思った。だんだんと、しんでしまうような気がして、恐ろしくなった。だから、日記帳に「あめがふってサッカーができなかった。木がびょうきできもちわるかった」と書いた。はじめてそう書いた日記帳が、やっとほっとしたような面持ちをしていて、それは日高もそうだった。それがどうしてなのかはわからない。けれど、次の日から日高の日記には色とりどりの事柄が並ぶようになった。こうしなければならないという呪縛がとけたように、そうなった。黒鉛がきらきらして、ああお母さんが言っていたきらきらっていうのはこういうことか、と思った。

日高は、少し瞼を閉じて、そのことを思い出してから、自分の先程まで手にとっていた日記帳を広げてみた。青い表紙の、昔のものよりずっと重みのある日記帳だ。一年分のそれより、二ヶ月ぶんの、それも半分しかうまっていないものが重たいだなんて、妙な話だ。ぱらぱらとめくってみると、大体「副長に怒られた。書類のごじだつじには注意」と書いてあったり、「昨日もそばだったからそろそろちがうのがたべたい。今日はゴッティーがんふふって三回しか言わなかった」だとかくだらない内容しか連なっていなかった。真っ黒なボールペンで、それはもう書き直せないようになっている。黒鉛のきらめきがそこにはなかったけれど、一番最初から最後まで、なんだかとてもかけがえのない色をして、きらきら輝いているような気がした。ああ自分はこの中で生きていたのだと、そう思った。そうして、明日も生きていかないといけないと思うと、なんだか気が重くなった。日高の手の中には道がいくつかあった。そうだった道と、そうであってほしかった道と、そうあってほしくなかった道が、ちゃんとあった。日高はそうであってほしかった道を思って、辛くなった。希望があるから辛くなる。希望はいつだって涙のかたちをしているのだ。



『X月X日 今日タケと買い物に行った。日記帳を買った。タケも今日から日記をつけるらしい。あいつも馬鹿だからつけんのかな。そんなわけないか。』
『X月X日 今日日高さんと買い物へ行きました。日高さん、日記をつけているらしいです。しっかりした方なのだなぁと思いました。一年の日記帳はなんだか重たい気がするので、僕も手始めに二ヶ月から日記をつけはじめることにしました。日高さんとお揃いの日記帳です。日高さんとお揃いなので、今日は日高さんのことを書きました。尊敬する先輩です。僕もいつか日高さんのような人になれたらいいなぁと思います。』

二人の一日目の日記はぴったりと重なっていた。楠原の日誌は今彼の手元を離れ、日高のところへと渡っていた。日高はそれを受け取ってしまってから、どうしようという気持ちになったのだけれど、指が頭の制御を離れたようにして、青い表紙をめくっていた。日高とおなじぶんだけ書かれた日記帳は、日高のものよりインクのぶんだけ重たい気がした。一日目の日記を読んでから、日高は「ああ楠原はここにいたんだなぁ」と思った。不思議な感覚がした。楠原が一ヶ月前のかたちをして、そこにいるような気がしたのだ。手紙のように、メールのように、少し前の意思や思想が文字のかたちをして、未来に飛んできたような、そんな気がした。日高は一日ぶんの日記だけを読んで、それをぱたんと閉じた。そうしてから、自分の日記帳を開いて、『楠原はちゃんといた。今日、俺と買い物に行って、日記帳を買ったらしい。おそろいだなんて、今思うとなんだかはずかしい』と書いた。あの日取りこぼしたなにかが、その中で鈍く煌めいたような、そんな気がした。



「日高さん」

そう名前を呼ばれたとき、それがあんまり懐かしい響きをしていたものだったから、日高は泣きそうになった。目の前には楠原がいた。なんてことないような顔をして、そこにいたのだ。ああやっぱりいなくなってしまっただけだったんだなぁと日高は泣いてしまいそうな安心感を持って、「楠原」と呼んだ。自分の口から出てきた言葉なのに、それは妙にそぐわないような響きをしていた。自分が以前どういう声音で楠原を呼んでいたのか、日高にはもうわからなかった。楠原は、けれど日高がそう呼んだことに少しだけ満足したようで、少しだけ、寂しい顔をして、「お久しぶりです」と。日高はここが夢の中なのだとちゃんとわかっていたくせに、「ああ楠原はここにいるんだなぁ」と思った。楠原は青服に身を包み、青の日記帳を持っていた。変わらないようで、どこか変わってしまったたたずまいをしている。

「僕、すごくお願いしたんです」
「え、」
「一ヶ月だけ、正しくはもうちょっと少ないんですけど、この日記帳がちゃんと埋まるまでは、ここにこうしていられるんです」

楠原がそう言ったときに日高は「どうして」と思った。そんなこと言わないでずっといてくれればいいのにと。けれど、日高の唇はうまいことその言葉を紡げないようだった。涙につまるのとは違う、神様みたいなものが喉にぴったりと蓋をしてしまったように、そうだった。楠原はそんな日高の様子を見てから、ふにゃりと笑った。その目元がなんだか知っているものと少しだけ変わってしまっていて、きっと楠原はここにくるためにすこしかたちを変えてしまったのだとわかった。

「日高さん、今日は何をしましたか」

楠原が尋ねると、日高は少し思い出してから、「お前と日記帳、買いにいった」と答えた。それはきっと正解だった。楠原はまたふにゃりと笑って「そうでしたね」と。

「僕、すごくこの日記帳が気に入ったんです。それに日高さんが日記をつけてるなんてはじめて知って・・・なんだか、そういうふうには見えなかったので」
「うん、俺、小学校のときに母親にさ、お前はばかなんだから日記くらいつけなさいって言われてて、それからつけてんだ。自分の子供にばかとか面と向かって言う親があるかよって思ってたけど、今は・・・わりと・・・」
「あはは、日高さん、日高さんってほんと昔から・・・日高さんなんですね」

楠原には言葉の制限もあるらしかった。日高にもそうだった。まるで日記の内容に書かれたこと以外話してはいけないよ、と親にしつけられた子供のように。二人はひとしきり今日の買い物のことについて話して、それから別れた。あっけなく、まるでさっきまでただ買い物をしていたように、別れた。そうしたら、朝がきた。

日高はベッドの上で天井を見上げて、どんな夢を見ていたのか思い出そうとした。けれど、思い出せなかった。それはとても幸せな夢だった。あるべきかたちをして、あってほしかったかたちをして、そこにあった。ゆるやかな眠気がまた瞼を落とそうとしたのだけれど、瞼をおとしてぼんやりしていても、それは訪れなかった。そうこうしているうちに同室の五島が「日高、遅刻するよ」と日高の肩を揺すった。眠っていなかったらしい日高に五島が首をかしげたけれど、日高もよくわからなかったので、うまく説明することはできなかった。説明しようにも、言葉がうまく出てこない。覚えていないけれど、これは二人だけのひみつなのだと、わかった。




『X月X日 今日は副長に怒られた。ごじだつじ多いとか言われた。ごじだつじ注意』
『X月X日 今日は日高さんが副長に呼び出しをくらってました。もしかしたら僕と一緒に行った見回りの報告書の件かもしれません。日高さんが書いておくという言葉に甘えた僕にも責任があるような気がしてもやもやしました。なんだかもうしわけないです。でも日高さんに声をかけたら、「きにすんな」と笑ってくれました。次からちゃんと僕も報告書書きますね』

楠原は日高の日記を読んでから、「こんな理由だったんですか・・・」と溜息をついた。日高は「こんな理由とはなんだこんな理由とは」と唇を尖らせる。

「せっかくよぉ、先輩らしいとこみせとこーと思ったのにさぁ・・・副長も×××さんも誤字脱字に厳しいんだよ。もっと広い心持ってこーぜ」

日高の台詞の一部が楠原には聞き取れなかったのだけれど、日高も自分が今何を言ったのか、うまく思い出せないようだった。二人で首を傾げるのもおかしい話なので、日高は「ていうかお前ほんと真面目なんだな」と話題を変えた。小さな変化だ。きっとふたりはここで「明日」の話もできないし「昨日」の話もできない。そういう決まりになっている。同じ一日を繰り返すだけの世界だ。まるで日記帳をめくって読み返すように。

「そんなことないです」
「だって俺だったら道明寺隊長が怒られててもちょっと話のネタにするくらいしかしないぜ」
「日高さん、それはちょっと・・・」
「それくらいにかまえとかねーとやってらんねーっつーの」

それもどうかと思うんですけど、と楠原は困ったように笑った。その日もまだ次の日があるとわかっていたから、二人はあっけなく別れた。それは当たり前のことだった。次の日があるのは当たり前だ。けれど、ならどうして日高は目覚めたときに重い喪失のような、心にぽっかりとひとひとりぶんの空虚があるのか。説明はつかない。説明はつけたくなかった。



「日高、なんか最近ぼんやりしてない?」

仕事中に榎本にそう言われて、日高は「え?あ、そうか?」と首をかしげた。特にそういうつもりではなかったし、何か考えているかと言われるとそうではなかった。ただ一人、誰かと話していたかもしれない時間、日高は何もできなくなっていた。時間が止まってしまったように、そうだった。けれどそれに日高は気づくことができない。そういうきまりになっている。

「だってお昼とか蕎麦食べにいこうとか言わなくなったし・・・え、と、まぁ、お昼ならなんでもいいんだけど・・・」
「え?だって蕎麦は明日食べるだろ」
「え?」
「明日・・・。明日?うん?あれ?えっと・・・」

日高は明日蕎麦を食べに行くことはわかっていたけれど、それは榎本とではなかったし五島でも布施でもなかったということもわかっていた。けれどそれが誰とだったのか、うまく説明がつかなかった。だから自分でもなんだか変な気持ちは、していたのだ。困惑する榎本に「ごめん、へんなこと言った」と謝るけれど、榎本の心配そうな顔はどうにもなおってくれそうになかった。

「明日・・・」

日高はそのあと榎本と何か約束をしようと思ったのだけれど、あとに続く言葉が何も出てこなかった。なんだかもやもやする。けれど、どうしようもなくて、「ごめん、なんでもない」とだけ言った。




『X月X日 タケとソバをたべた。おいしかった』
『X月X日 今日は日高さんとソバを食べに行きました。外に食べにいくのはなんだか久々だったのですごくおいしかったです。わりと人気のお店だったので混んでるかとも思ったんですが、ちょうど空いてる時間だったみたいで並ばずにお店に入れてよかったです。また、お昼休みとかは混むでしょうから、仕事終わりとかに日高さんと来たいなぁと思いました。明日も仕事があります。今日は少しミスをしてしまったので、その分、取り返せればいいなぁと思います』

今日は最後の日だった。これまで、日高と楠原は一ヶ月、世界の日常よりも遅れて、時間を歩んでいた。日高の時間も、楠原の時間も、進んでいるようで、止まってしまっていた。けれど、かけがえのない時間を、ちゃんと、日記帳をめくるように、しっかりと、忘れてしまわないように、進んでいたのだ。それを楠原も、日高も、ちゃんとわかっていた。明日、楠原はいなくなる。日高にはそれがわかっていたから、辛かった。

「日高さん、もうわかってると思いますけど・・・」
「・・・楠原・・・じゃ、ないな・・・タケ」
「ああ、今日は大丈夫なんですね。そうですね、こんなこと、日記には書いてないんですから」

楠原は悲しそうな顔で笑った。本当は、こんなことをしないで、もっとはやくに遠くへ行ってしまうことも、できたはずだ。かたちを変えて、たくさんのひとに大切だった感情を忘れさせて、そんなことまでして、楠原がこの日記に戻ってくることなんて、なかった。

「また日記帳、買えばいい」

日高がポロリとそんなことを言ってしまうから、楠原はそれに乗ってしまいそうになる。けれど、そんなことをしたら、日高の時間は一生とまったままになってしまう。もう消えてしまう楠原と一緒にいることを選べば、日高はほかの人と同じ時間は、歩めなくなってしまう。楠原はふるふると首を横に振って、だめですよ、と笑おうとして、できなかった。日高と、できるならずっとこうしていたい。自分のことを忘れてほしくない。かけがえのない時間の中で、ずっと、ずっと、ほんとうに、そうあってほしかった時間のぶんだけ、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと。けれどそんなのは、いけないと、ちゃんとわかってしまっていた。だから、「僕だって、一緒にいたい、です」と、神様なんかに蓋をされているわけではなく、ほんとうに涙につまったような声で、ひきつれた悲鳴のように小さく、呟いて、ばたばたと涙をこぼした。

「じゃあ」
「でも、だめ、なんです。わかって、るんです。日高さん、日高さん、わかって、おねが、わかって、ください」
「タケ、」
「僕は、あなた、の、日高さんを、殺したく、ないんです」

だから、と楠原は腰に差していたサーベルとすらりと抜いた。良く手入れされた銀の光沢が、少しだけ眩しい。日高は呆然とそれを見ていた。楠原に殺されるなら、と思った。けれど、それは、楠原がしっかりと習ったとおりの構えをして、習ったとおりの動作で突き出されると、痛みを伴うこともなく、日高の胸の真ん中に穴をあけた。

日高はしばし呆然と胸から生えるそのサーベルを見ていた。血は流れない、痛くもない、日高は生きている。なら、死んだのは、なんだ。

「だから、僕は、日高さんの中の僕を、連れて行きます」
「タケ・・・?」

楠原は、日高の胸からするりとサーベルを引き抜くと、ゆっくりと、あぶなげなく鞘におさめた。

「僕、の、こと、は」

忘れてください、と言って、笑おうとして、できなかった。ほんとうは忘れてほしくなんて、なかった。けれど、それでも、楠原はどうにか笑おうとして、何度も失敗して、ぼろぼろと泣いて、日高も、そうだった。忘れたくなんかない。ずっと大切に、心の真ん中に置いていたいのに、そうしてはいけないんだと、言われてしまった。二人はもうどうしようもなくすれ違ってしまっていた。ふたりはもう違う時間を歩みはじめている。だって、もう日高は目覚めなければいけないし、もう楠原を抱きしめることもできない。たくさん言葉があるのに、どれを言っていいか、わからなかった。さよならも、言えない。けれど、これが、ほんとうにさよならなのだ。

「タケ」
「日高、さ」
「俺は、おれ・・・」
「僕、日高さ・・・っ・・・」

楠原は、どうしたって泣いていたけれど、それでも、やっとぐずぐずでみっともない顔を作って、笑った。

「日高さん、ちゃんと、僕を、殺してくださいね」




目覚めたとき、日高はゆったりと天井を見上げた。そうしてから、もう一度だけぎゅっと瞼を閉じて、自分がちゃんと泣いていることを確かめる。そうしてから、疲れたように身体を起こし、ボールペンを探した。それはすぐに見つかってしまう。それから、青い日記帳を開いた。それはもうあとは今日のぶんだけを残して、全て埋まってしまっていた。日高は少しだけ考えて、ためらって、けれど、そうしなければいけなかったので、ペンを走らせた。短い文章を書き終えると、涙があふれてあふれて、しょうがなかった。それはぱたぱたと日記帳の端にシミをつくる。日高は嗚咽を全部涙に溶かして、泣いた。希望はいつだって、涙のかたちをしている。


『X月X日 タケが死んだ』


END





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