安全なラブソング
名前というものは不思議なものだなあと荒北は思った。病院の待合室でだ。別に荒北が何か病気をしただとか、怪我をしただとか、そういうことではなかった。新開が少し手首を捻挫したのだ。自転車で転んだときに変に手をついてしまったらしい。付き添いなんて必要な年ではなかったのだけれど、福富が念のためにと付き添いに荒北を指名したのだ。病院という場所はなんだか落ち着かないようで妙に落ち着く場所だ。荒北は貧乏ゆすりをしながらも白系統と淡いブルーで統一された待合室で、くたびれたマガジンを読んでいた。表紙がもうくたくたになっていたけれど、暇をつぶすのにここでは会話というものが使えないのだから仕方がない。病院の待合室はやけに静かだ。連れ合い同士が話すにも囁くようにその二人の間だけで行っていた。誰かの名前を呼ぶときだけ看護師の声が大きく響く。そうするようにしているのかもしれないけれど、そんなことをしなくたって、自分の名前というものはわりに聞き分けられるものだ。
「あ、呼ばれた」
荒北は気づかなかったのだが、看護師が新開の名前を呼んだらしい。他人の名前というものはわりに親しい間柄でも聞き取れないものなのかと荒北は思った。荒北の耳にはいまのいままでさわさわとした雑音だけが響いていた。誰か何か呼んでいるなとは思ったけれど、存外漫画に集中してしまっていたらしい。新開は立ち上がると、呼んでいたらしいマガジンを荒北に「持っていてくれ」と手渡した。荒北が読んでいるやつのひとつ先のマガジンだ。荒北は古い順に読むタイプで、新開は新しい方から順に読むタイプだった。荒北は「おお」と何の気は無しにそれを受け取って、新開がカーテンの向こう側に消えるのを見送った。
診断はやはりなんてことない軽い捻挫だった。テーピングをするかサポーターを巻けば練習に参加してもいいらしい。新開は戻ってくると、「病院にくることもなかったな」といつもどおりの顔で呟いていた。荒北はさっき新開が読んでいた方のマガジンに手を付けたところだった。さっきまで自分の読んでいたマガジンは膝の上に乗せている。新開はそっちの方を受け取りつつ、「すぐ会計だろうけど」と暇つぶしをはじめた。
それから五分もたたないうちに新開が不意に立ち上がった。名前を呼ばれたらしかった。荒北はまたわからなかった。また新開に押し付けられたマガジンを含め二冊とも本棚に返しながら、新開の名前を思い出していた。いつも苗字でばかり呼んでいると下の名前に何か違和感がある。荒北がバッグを持ち上げながらちょっと考えていると、「靖友」と声がした。雑音の中によく響いた声だなあと、荒北は思った。
「すまん、10円貸してくれ」
「利子は高ぇかんな」
「そう言うな」
荒北は自分の財布から10円を新開の掌に落とした。なんだかいたたまれないような気がした。新開は支払が済むと、わざわざ、「靖友、帰るぞ」と言った。荒北は「命令してんなよ」と返した。よく通る声だなあなんてことを何度か目に思った。呼ばれたら顔をあげてしまうような、そんな声だ。
END
title by さよならの惑星