人間は愚かだ。たった今おまえが証明したよ
心暗いところは少なくとも伏見にはなかった。心暗いところがなければ、そこにはなんにもないのだという証明ではあったが、しかし、それは証明しようのないところでもあった。伏見が宗像から仕事を貰うことはままあったし、それによって報酬が出ることもままあった。それを秋山が快く思っていないということも伏見はよくよく知っていた。秋山は愚直にも言葉にして伏見に突きつけてきたのだ。「室長から伏見さんへと渡る仕事、俺はよく思っていません」と。それは仕事の内容についてだったのか、伏見と宗像が傍から見て親密であることへの苦言であったのか、そこまでの分別は伏見にはよくわからなかった。よくわからなかったけれど、伏見は別段、後ろめたいこと、心暗いことを抱えているわけではなかったので、とくに取り合わなかった。ただ「そうか」とだけ答えたのみだ。そのときの秋山の顔も、もうよく覚えていない。そのやりとりが行われたのは比較的最近だったが、伏見の心に残るところがなかったのだ。伏見は決して心明るいところもなかったけれど、心暗いところもない。ただ仕事を仕事としてこなして、宗像へ報告し、それに見合っただけの報酬を受け取るだけだ。そこに秋山を挟む余地はなかった。
「伏見さん」
ある日秋山が廊下で伏見に声をかけてきた。伏見はちょうど宗像のところへ赴くところだったので、「手短にしろ」とだけ返す。秋山は思いつめたような顔でもって、伏見に「報告は、俺が行きましょうか」とどうしようもないことを進言した。なにせ秋山は今回伏見が受けていた仕事の内容すら知らないのだ。それなのに報告なんでことができるわけがないし、伏見が事細かに秋山へそれを伝え、秋山がそれを宗像に報告することは可能だったが、それではあんまりにも不自然であるし、手間でもある。伏見は「それだけか」とだけ秋山へ突き返した。秋山は少し戸惑うような顔になった。それは自分の言動への戸惑いであるらしい。伏見は至極当然の受け答えしかしていないので、あたりまえだ。秋山は伏見が断ったことに対して困惑するほどの愚図ではなかったし、こんなことを進言するほど積極的な性格でもなかった。変なことは言葉にするくせに肝心のところを言葉にしないのが秋山の悪いところである。伏見もわかっている。わかっていて、心暗いところはなかったのだ。
「それだけなら、俺は室長のところに行くけど」
「すみません。要領を得ないことを申し上げました」
伏見はそのあと秋山になにか声をかけようかかけまいか、少しだけ迷った。迷ってから、何も言わずにその横を抜けて、宗像の部屋へと足を運んだ。すれ違いざま、秋山が小さな声で「伏見さん」とつぶやいたが、それは伏見の耳をすり抜けて、消えた。
その日伏見は宗像に仕事の報告をしたが、ついでに、と宗像は伏見にちょっとした頼み事をしようとした。仕事に関することだった。しかしそれは伏見でなくともできる内容のものだった。伏見ははじめ面倒だとも思ったが、その「お願い」を受けてしまおうとも思っていた。思っていたのだが、自分の心にふと、ほの暗いものが差した気がした。それは秋山のかたちをして、秋山の声をして、秋山のにおいをしていた。伏見はそれにはたと気が付いて、困惑した。もちろん表には出さない。憮然とした表情で、自分の心のあたりを探ってみた。たしかに暗い部分がある。明るい部分などもとより持ち合わせていないが、いつもほの暗いそこに、ひときわ影の差している部分があった。そこを見つめてみて、それから、伏見は「室長、」と口を開いた。
END
三条さんへ。
リクエストありがとうございました。