ふたりのビオトープ
※捏造多目
三年生にもなると高校では春のあたりから進路希望を調査する。そんなもの調査しなくったってきっとみんな心のどこかではわかっているし、どうしたいかなんて決まっている。けれどそれをあえて調査するというのは、三年生にとっては少しばかりでなく苦痛だった。自分の胸いっぱいの希望や願望を、薄っぺらな紙一枚にまとめなくちゃいけない。或いはまだかたちを成していないもやもやとした敏感なところをぐっさりとナイフで切り裂かれて、その中身をぶしつけにじろじろと観られるようなものが、それである。及川はなんとはなしに希望している進路をそこに記した。及川は大学への進学を志している。どこでもいい。何を勉強するでもいい。結局はバレーしか自分の心をゆさぶるものはないのだとわかっていた。だからバレーができるのならどこでもいいし、どうせなら強いところがいい。学力的にはそう問題はなかったし、妥協もなかった。だからここ、と決めたところを春のあたりからずっと、その白にいくつかの項目が印字された紙に書いて出していた。先生も「まあ勉強なさい」と言うだけで、及川の進路には文句がないらしかった。そのうちバレーでスカウトも、推薦もくるだろう場所だ。なんにも心配はなかった。なかったのだ、岩泉の進路希望の紙を見てしまうまでは。
夏の終わり頃だった。及川には希望していた大学からのスカウトがかかっていた。及川はそれを受けようと思っていた。その日は雨が降っていた。夏に珍しく冷たい雨だ。廊下にも湿気が充満して、どうしようもなく蒸し暑かった。湿度が高いといろんなものがべたつく。そのころに再度行われていた進路希望の調査用紙も、湿気を吸ってどこか重たくなっているようだった。進路希望調査用紙は、基本的にホームルームでまとめて回収されるが、遅れる場合は自分で直接職員室へ持っていかなければならなかった。及川は今朝のホームルームまでに書いておかなければならなかったものを、進路が当然に決まりすぎていたがゆえに書いていなかった。だから授業の合間にさらさらとそれを書いて、昼休みの間にそれを出しに行こうとしていた。そのときにちょうど、岩泉と出くわした。岩泉の進路希望の用紙らしき紙を持っていた。及川はどうして、当然、岩泉も自分と同じ大学に進むものだと思っていたものだから、その紙を岩泉が持っていること自体に違和感を覚えた。そうして、きゅうに、確かめておかねばならないと思った。きゅうに、こわくなったのだ。
「岩ちゃんも職員室?進路の紙?」
「おお、まあ、そうだけど」
「志望って…」
「進学だよ。前にもなんか話したろ」
「そうだよね」
「どうでもいいけど、早く出しにいかねーと」
「ああ、うん、そうだよね」
生返事を返しながら、及川は岩泉の持っている紙からじっと目が離せないでいた。岩泉の字は大き目だ。遠目から見ただけでもすぐにわかる。第一志望を書く欄には、及川とは違う大学の名前が記されていた。及川はそれに気が付いて、変な心地になった。そのへんな心地のまま、岩泉の手首のあたりを捕まえた。岩泉は「なんだよ」と嫌そうな顔をする。じっとりと廊下は湿っていた。及川の手もその湿気を吸って、いつもより汗ばんでいる。岩泉は胡乱げな眼でもって及川を振り返っていた。及川はただひたすらに、気持ち悪いと思っていた。なんだか、ちがう。こんなのは違うと思った。ふたりの未来がどうにも想像できなかった。さっきまで想像していた及川の未来には、岩泉がいた。けれどそのビジョンが一瞬にして瓦解して、及川は狼狽していた。らしくなく、狼狽したのだ。だって、ずっと一緒にいるもんだと思っていたのだ。岩泉はいつだって及川の近くにいるものだと。あと半年でそんなに離れてしまうものではないと決めつけていた。決めつけて、思い込んで、及川はその中で生活を営んでいた。
「おい」
岩泉の声が遠くから聞こえてくるように、及川には感じられた。今すぐにその岩泉が手にしている書類を捕まえて、取り上げて、びりびりに破り去って、新しいそれに、自分と同じ大学を書いてしまいたいと、そう思った。だって及川と岩泉といったら、ずっと昔から一緒なのだ。それこそ気が遠くなるくらい。不思議だった。ただただ不思議だったのだ。岩泉と自分の、その道が分かたれようとしている今このときが。ここからの先々が。
END
title by リラン