ロストラブ、ロストサマー






日本語というものはなかなかにきめ細やかな区分をされているものだ。高尾は課外授業において国語の教科書を眺めながらそう思った。さっきまでは英語の教科書を開いていたが、そこには「恋」と「愛」を雑多にした「love」という単語のみが記されており、現在高尾が目を滑らせている教科書にはしっかりと「愛」と「恋」の区別がなされていた。先生の、よくわからない雑談は「日本人はあまり愛しているという単語を異性以外に言わないが海外では云々」というものであり、それもまた高尾の右なのか左なのか、とにかくどちらかの耳から入り、そよ風のようにまた、どちらかの耳から抜けていった。夏休みの課外授業なんてものはそういうものだ。一年において課外授業というものは少なく設置されていたが、進路なんてものはまだまだ縁遠い話であったために、生徒の集中もそこから遠くに置かれているようだった。中には遠く先を見据え熱心にペンを走らせている生徒もいたがほんのごくわずかだった。そのごくわずかの生徒なのだろう、高尾の席の後ろからはかりかりともさらさらともつかないが、とにかく鉛筆をノートへ走らせる音が響いていた。緑間である。高尾はなんとはなしに、緑間が愛と恋について今静かに板書をとっているのか、と考えた。そうしたら少しだけ愉快なような気持ちになって、倦怠を帯びていた口の端どもを持ち上げてしまった。先生の話はその思考に遮られ、ただ雑音としてのみ、高尾の耳をさきほどより足早に通り抜けてゆく。

その日は部活が休みであった。休みだったので、どこかへ出かけたくなった。夏休みだというのにバスケばかりの毎日では青春がもったいない、と、言い出したのはもちろん高尾である。しかし、夏めいたことをするには課外授業ののちという時間、学生という区分はなかなかに厄介だった。海へ塩をあびに行くにしたってそれは遠いところにあったし、花火をするにしたら時間が早すぎた。夏祭りも本日は開催されていない。仕方がないので、二人は少しでも海を感じようと、小さな水族館へと足を運ぶことにした。最近できたばかりの水族館が、電車を少し乗り継いだ場所にあったのだ。それは水族館ひとつとして存在しているわけではなく、巨大な建物の中の一角、ひとつの階の限られた場所を使用しての水族館だった。その施設には他にもプラネタリウムがあったり、ショッピングモールが併設されていたので、課外授業の憂さ晴らしにはなかなかに最適でもあったのだ。高尾はきっちりと着ていた制服を幾分かだらしなく着崩したが、緑間においては白いカッターシャツの裾をきっちりとスラックスに入れ、ボタンも第一ボタンのみを開けていた。学校帰りだから仕方のないことなのだろうけれど、高尾はその恰好に幾分か興をそがれたようでもあった。

水族館に入ってしまえば、中はずいぶんと涼しかった。薄暗い館内に比例して水槽は青く輝いており、それがまた涼しさを感じさせる。大きな水槽やら小さな水槽を眺めては、二人して説明書きを熱心に読んだり、ただぼんやりと言葉少なにそれを眺めたりした。館内は人がまばらに歩いていたけれども、盛況というほど込み合ってはおらず、そのためかわりに静かだった。足音と、ときどきさざめくような会話が聞こえるばかりだ。そのためか水槽のうつくしさのためか、二人も次第に会話をしなくなり、ただぼんやりと水槽を眺めるばかりになる。そこは不思議な空間だった。海なんてところには来ていないのに、とても海だった。潮の香や波の音までしてくるようで、二人はまるで海の中にいるようだとさえ感じた。

「あ、底の方で魚、死んでる」

高尾はひときわ大きな水槽の前で、底の方を指さしながらなんとはなしにぽつりとそんなことを言った。緑間もそれを見つけたのか、「そうだな」とだけ、それに返した。そのあと二人はむっつりと黙って、水槽を眺めていた。水槽は足元の床より水深が深く、そこから見下ろした先にいつかは泳いでいただろう魚の死骸があった。高尾はそれから目を離せずに、ぼんやりと、課外授業の内容を思い出していた。愛とか恋とかそういう話のことだ。そうしてから、隣に緑間を感じた。緑間もまた、視線はその魚の腹に向けられているようだった。動くに動けなくなってしまったなあと高尾は思いつつも、ずっと、この海の底のような場所で緑間とふたりっきりのような気分でいたいとも思った。その水槽の前には高尾と緑間以外の人はおらず、出口付近でもあったために、そこを通り過ぎる人が多かった。多くの人に追い越されながら、緑間と高尾はただひたすらに海の底を眺めている。そのとき高尾は、静かに自分の中で愛情が死んでいくのを感じた。緑間に抱いていた友愛の情だ。そうして、それが完全に死んでしまったとき、きっと夏も終わりを告げるのだと、わかった。高尾は静かに、隣にいた緑間に手を伸ばした。高尾の触れた緑間の右手は、すでに夏を失ったかのように冷たく、高尾より先に、愛を失ったかたちをしていた。ふたりは静かに、水槽を眺めている。底の方で死んでいる魚は、たしかに愛のかたちをしていたのだ。


END


猫羽さんへ。
リクエストありがとうございました。

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