いつかその現象にふれてみて






その日の夜はとても静かだった。降旗はベッドの中に沈んでから、すこし冷めて、しっとりと湿っているような、そんな窓の外を見てから、そう思った。こんな夜には誰かと話をしながらぽつりぽつりと時間を過ごしてみたい。けれど、部活によって汗の滴をごっそりと抜き取られた身体はただただ、ひたすらに休息を求めていた。だから降旗はひっそりと瞼を落とした。ほんの一握りの寂寥にまどろみながら。


降旗が次に目を覚ましたのは電車の中だった。どこへ向かうとも知れない電車の中だ。窓から見える景色は雪の降る真夏であった。じりじりとした天気の中に雪が舞っている。雪は地面に届く前に水になり、雨となって地面を濡らしたが、その濡れた地面はすぐに乾き、陽炎が立ち上っている。外はそんな異様に包まれていたが、しかし、電車の中は至って夜だった。海に沈んだように静かで、電車特有のたたん、たたん、という音も聞こえない。降旗は座席に腰を下ろしていた。いつものジャージ姿であった。そうして、その海に沈んだ夜の滞留した車内を、静かに眺めていた。その視線の先に、たった一人だけ、何者かが存在した。降旗はその人物と一応の面識はあったが、親しくはなかった。親しみを覚える前に、身体の底から震えるような怖さを覚えた人物だ。しかし降旗はこの車内の中でだけは、おびえることなくその人物を見据えることができた。その人物もまたいつか見たジャージ姿で、いつの間にか降旗の正面の座席に腰掛けていた。相手も降旗を見つけたのか、気づいたような顔で降旗に視線を寄越している。

「赤司」

降旗が思いついた名前を呼ぶと、赤司の方は少し考えるそぶりをした。そうして、記憶からどうにか降旗の名前を思い出したらしく、しかし、下の名前はなんだったか、という顔になった。そうして、仕方がないから、と、赤司は「いい夜だ」と応えた。応答は成り立っていなかったが、そういうものだと降旗は認識した。ぷかぷかと浮かぶような夜のにおいを吸い込んでから、「そうだね」と座席にもたれる。静かだ。とても静かだ。こういう夜には他人と知り合いたくなる。そしてその初々しい会話に言葉を預けたくなるのだ。いい夜だ。降旗は素直にそう思った。

「この電車、どこに向かってるか、赤司は知ってる?」
「さあ、わからないな。けれど君と僕が乗り合わせているのだから、きっと、そう遠くへは行かないんじゃないか」
「そうだね。うーん。まあ、そうなのかなあ。俺あんまり持ち合わせがないからそう遠くへ行かれちゃうと困るんだよね。でもずっと乗ってたい気もするんだ。すごくいい夜なんだ」
「そうか。僕はもうちょっとしたところで降りるつもりでいるんだ。これはほんとうの電車ではなくて。僕はちょっと間違えて、この電車に乗ってしまったらしい。向かう先がどうにも、僕の目指す場所とは違っている」
「へえ、赤司でも間違うことなんて、あるんだ」

降旗は自分が馴れ馴れしく赤司のことを「赤司」と呼んでいることに気が付いていないようだった。赤司はしかし、そのことにはさして頓着しないようでもあった。すっきりと背筋を伸ばして、座席に腰掛けている。降旗とは異なり、やはり長居をするたたずまいではなかった。ほんとうになんの奇遇か、ここに居合わせてしまったらしい。電車は音もなくただ静かに、滑るように線路をゆったりと進んでいた。会話がぷちりと千切れるたんびに、夜はいや増して、その進捗を知らせるようだった。

赤司が降旗の先のちょっとした言葉に何も返さなかったので、降旗は一寸戸惑った。どうしたものかと思った。そうして、初対面の人と話すときによくそうするように、何か話題はないかと、あたりを見回してみた。すると先ほどまで昼の真夏だった車窓の景色が、いつの間にか海の底になっていた。青白い光が差し込んで、ぶくぶくとあぶくが底の方から湧き上がっている。赤司はいったい、どこまでこの電車に乗り合わせているんだろうかと、疑問に思った。そう長くはいられないのだろう、きっと。赤司の進む道はどうしたって、降旗のずっと先、もしくは上にあるのだ。降旗は自然とそれを理解していた。

「赤司は、そういえば、なんでこの電車に乗ったの?」
「さあ、どうしてだったか。なにか気につくところがあったのかもしれない」
「ふうん。俺はこれじゃなきゃいけないような気がしてたんだ、きっと。でもどこかで乗り換えることもできるんだ。そんな気がする」
「そうかい?僕には君にはこの電車がよく似合っていると思うんだけれども」
「そう?そう言ってもらえるとうれしいんだけれども、こればっかりはなんていうか、気分みたいなものだからなあ。赤司だって、そういう気分でここにいるんじゃないの?」
「そうなのかな。どうだろう。僕にはひとつしかないように思えて仕方がない。僕が立つべき場所へ向かっているものはただの一本きりなんだから」
「そんなことないと僕は思うけどなあ」

降旗の言葉に、赤司は少しの衝撃を受けたらしかった。適度な長さのまつ毛に縁どられた眼を大きくして、降旗を見つめ返している。降旗はいつもであればそこで落ち着かなくなりはじめるのだけれど、この場所に満ちている空気がよかったらしい。落ち着いた顔で、赤司の端正な顔を見返している。

「線路はどこかしらで繋がっているものじゃなかなあ。それに、ちょっと間違ったところで、引き返すか、乗り換えて近道にしちゃうか、すこし遠回りして景色を楽しんでいくか、色々あるよ。急がないんだったらね。赤司は急いでるの?」

赤司は降旗の質問に、少し考えるそぶりを見せた。降旗は少し間を置こうと、窓の外へ視線をやった。ゆったりとした光が差し込んでいる。そうすると、急に胸のうちに浮かんでくる言葉があった。降旗はそれを閊えさせることなく、自然に吐き出した。

「きっと急ぐ必要なんてないんだよ。なんなら、たどり着けなくったって、いいんじゃないかなって、俺は思うけど。でもそこはきっと赤司の考えることなんだろうね。僕はまだどうしようかなって思ってるとこだよ。決まってる赤司はすごいんだろうけど、僕はどうしたって僕だから。ゆっくりなんだ。最終的に、どこかにたどり着くことができれば、それでいいんだ、きっと。なんか、変だね。僕、今日はやけにえらそうだ。なんだか、変だ」

降旗は一息にそう言ってしまってから、赤司の方を見た。しかし、赤司はそこにはもういなかった。もとの場所に戻ってしまったらしい。降旗の先の言葉を、最後まで聞いていたのかどうか、確かめようがなかった。確かめようがなかったけれど、まあ、どちらでもいいと降旗はそう思った。また電車は滑るように海の中を走っていく。降旗一人を乗せて、静かに、夜を運んでいく。

その日の夜はとても静かだった。こんな夜には誰かと話をしながらぽつりぽつりと時間を過ごしてみたい。しかしそうして満足したなら、きっと、別れを惜しんで、朝を憎むのだ。そうやってどこか満たされて、満たして、足りなく感じて、足りなく感じさせて、そうして朝の方まで運ばれていく。静かに。続くその先へ、向かっていくのだ。



真新しい朝日に、降旗はゆっくりと瞼を押し上げた。胸の内にはまだ夜が蟠っており、誰かに会いたいと、そう思った。眠りにつく前とそこまでは同じであったがしかし、浮かぶ人物は、ただ一人だ。不思議なことに、ただ一人だったのだ。


END


title by 深爪

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