さよならタイムマシン






※黒田大学2年、荒北3年で大学生パロ。別々の大学です。


もしもあの日に戻れたら、と黒田は思うときがある。正しくは、あの日々に戻れたら、というときだ。大学2年生になった黒田は、今日も今日とて自転車に乗っていた。自分は雑巾なんじゃないかというほど汗を絞り出して、ボロボロになってボロボロの安いアパートに戻ってくる。ひとり暮らしだった。部屋にはものが少ない。少ないから、あまり汚くならない。洗濯物がひと山と、自炊の形跡と、隅に蟠る埃だけがしみったれた部屋にあった。値段が安いだけが取り柄なので、冬場は水道管がよく凍るし、夏場は熱気がこもりやすい。クーラーはついていなかった。畳敷きで、布団はお情け程度にたたむことで一応の上げ下げをしていることにしている。黒田は煙草を吸わないので、部屋はいつも藺草のにおいをさせていた。こざっぱりとしている。この部屋にくる誰もが、そう言った。黒田らしからぬ部屋であると、言われたこともある。不器用を絵にかいたような部屋であったからだ。

今の季節は冬に近い秋だった。この2年間で黒田は何人かの女性とお付き合いをした。大学生になって浮かれていたところがないとは言えない。そのころのことを、黒田はあまりよく覚えていない。結局、「自転車と付き合えば」と言われて、終わったようなそんな気がする。黒田は高校から自転車を始めて、自分がだんだんと不器用になっていくのがわかった。ひとつのことだけに没頭することを覚えてしまったとも言う。とにかく黒田は、細々としたことは器用にこなせるのに、こと自転車となると不器用にならざるをえなかった。そういうふうに、いつの間にかなってしまっていた。けれどどこかでこうなれてよかったと思う自分もいる。黒田はそれをちゃんと自覚していた。

黒田はべたつく汗を吸い込んだジャージを洗濯機に放り込み、色柄物だけ避けて、とにかく洗濯物の山を切り崩しにかかった。遠慮なんてものはいらない場所であるので、身体に張り付いているものを全部洗濯機に放り込んで、洗剤と柔軟剤を入れて、全自動の洗濯機のスイッチを入れた。そうして、自分も洗ってしまおうとバスルームと呼ぶにはどうにもチープなシャワー室のようなそこに入って、頭から熱いお湯を浴びた。この部屋のシャワーを扱うにはコツがある。シャワーというものはそういうものだ。お湯の方のコックを捻りすぎてはいけない、水の方も捻りすぎてはいけない、どこかしらにそういう「くせ」を持ち合わせている。このシャワーともだいたい2年付き合っているので、その点黒田はそれを熟知していた。ざあざあと土砂降りの雨のようなシャワーを浴びながら、黒田は自分からいろんないらないものがそぎ落とされていくのを感じていた。身体がだるかったので、そこそこに髪を洗い、コンディショナーをつけるのは面倒だったから、シャンプーを流したら、洗顔フォームをお情け程度に泡立ててざかざかと顔を洗い、そのあとがしがしと身体を洗った。隙間をよく洗う癖のある黒田は、蒸れていそうな腋や、臀部のあたり、それから、睾丸まで丁寧に洗った。どんなに疲れていても、黒田は身体だけはゆっくりと洗う。コンディショナーなんてものはつけなくても、その隙間隙間に溜まった疲れのようなものは、丁寧にそぎ落としていくのだ。そして、気分的な問題で、睾丸は最期に洗う。自分で自分のそれに触りながら、黒田はぼんやりと、この部分に触ったことのあるであろう人を思い描いた。そういうことをするときに、真っ先に思いだされるのはどうしてか、高校の先輩だった。男の。黒田は男と付き合っていた時期がある。タイムマシンが目の前にあったとしても、絶対にそのころにだけは戻りたくない、振り返りたくもない、と顔を覆うような稚拙で、若くて、とにかく幼かった頃の思い出だ。その人はとんでもなく口が悪くて、罵詈雑言を吐き出すその口で、いつだったか、黒田のそこに触れたことがあった。そのときのことを思い出すたびに、黒田は「最悪」と呟く。決まり事のように。

誰かと付き合った記憶はやたら曖昧なのに、なぜかその人と付き合った時の記憶だけは鮮明だった。それも、嫌な思い出ばかりが目の前につきつけられているようにぶわりと噴き出してくる。どのあたりが嫌な思い出なのかというと、自分が幼くて、素直じゃないその人とよくよく口論をしていたあたりのことだ。今の自分であれば別段腹を立てないこと、素直に聞き入れてやれるようなことにいちいち腹を立てては喧嘩をしていた。別れた原因もだいたいそういうところにあった。その人が大学にあがって当時高校生だった黒田とうまく時間を作れなくなったこともあって、二人はうまくいかなくなった。そのころにした喧嘩がこじれにこじれ、売り言葉に買い言葉で、別れてしまったのだった。今でもつい昨日のことのように思い出すことができる。他の別れの記憶がもう過去の思い出のにおいをさせているのに、そればっかりがどうしてか鮮明で、まるで過去のことではないのではないかと思われるほど、そうだった。

黒田が少しごわついたタオルで水気をぬぐって、下はトランクスで、上に乾いたシャツを着ると、とてもさっぱりとした気分になった。真新しい自分になったような気がする。洗濯機はまだごうんごうんと唸り、中身をぐるぐる回していた。その洗濯機のように、黒田はずっと、ぐるぐると考えている。スウェットに足を入れながら、黒田は部屋の窓の縁に座った。窓を開け放つと、ごみごみとしたアパートの群れがそこにある。大学の近くなんてこんなものだ。それを眺めながら、黒田は、タイムマシンがあったら、ということを想った。タイムマシンがあったら、自分はどうするだろうと。部屋のそこにある机の引き出しから過去に戻ることができたら、なんてことを考えて、黒田はふうと溜息をついた。ありえないことだったからだ。ありえないことを考えたってどうしようもない。そうしてから、ずっと鮮明に思い出される人のことを考えた。過去の自分じゃあ、ダメだったのだ。けれど、今の自分なら、どうだろう、と。あの人のごみごみとした、なんだかよくわからない理屈やら、罵詈雑言やら、シャワーのように面倒な「くせ」やら、そういうものに、うまく寄り添っていけるだろうか。そして何より、あの人は今、誰のことを想って窓の外を見ているだろうか、と。深い感傷だった。

窓から吹き込む風は、もう十分冷たくなっていた。その風に濡れた髪をさらしながら、黒田は部屋の隅に投げておいたケータイを手にした。そうして、きっと今しかないのだろうなあと思いながら、電話を掛けた。8コール待って、出なかったら、今度こそ思い出にしようと、そう思っていた。そうしたら、2コール目で、それはぷつんと繋がってしまったのだ。黒田はおかしくなって、はじめに「ふは、」と笑ってしまった。


『おせェんだヨ!バァカチャンが!!』



END


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