明日の世界もどうでもいいくせに(吹雪さん)
人一人ぶんだけはいるくらいのスーツケースがあればどこへだって行けるということを、伏見は知っていた。どこへでも行ける。けれど、どこへとも行きたくないのが伏見でもあった。人一人分だけのスーツケースに、自分だけ詰め込んだって、どうしようもない。誰も運んじゃくれない。自分で運ぶしかない。けれど人一人分の荷物というものは存外重たい。その中に自分が入っているんじゃないかってくらい、重たいのだ。伏見はいつだったか、そのスーツケースを持ってみて、溜息をついた。とても重たい。スーツケースの中身が重たいなら、じゃあ、中身を減らしてしまえばいいという話になる。もちろん伏見はいらないものを全部適当に投げ捨てて、必要なものだけその中に詰め込もうとしてみた。そうしてみたら、なんにも残らなかった。こんなものか、と思った。人一人はいるくらいのスーツケースを持っておいて、伏見にはなんにもない。そんなものだ。結局、それでいいとも、思っていたから、そんなものなのかもしれない。
真夜中の執務室というのは、なんだか落ち着くようで、落ち着かない。伏見はそこで静かに、いつものように残業していた。空調の効いた部屋が、「さっさと出ていけ」という顔をして伏見の下やら上やら横に存在している。伏見はそんなこと知るか、とカタカタとずっとPCに向かっていた。いつものように。
そんな伏見の前に、コトン、と甘そうなカフェオレの缶が置かれる。置いた指の先から根本へと視線を持っていくと、それは日高だった。日高が「疲れたときには甘いもんすよ」とへらへら笑っている。隊服ではなく、私服だった。
「ブラックにしろ」
「伏見さんいっつもブラックじゃないっすか。たまには甘いの飲んでもいいんじゃないっすか」
「つーかなんでまだここにいるんだ。お前もう上がっただろ」
「いや、だって寮から見てみたら執務室の明かりついてたからだれかまだいるのかなーと思いまして」
「いたらなんなんだ」
「差し入れしようかと」
日高は自分にも買っていたのか、甘そうなカフェオレの缶をかしゅん、と開けて見せる。ようは夜中に話し相手が欲しかっただけらしい。伏見は面倒だな、と思いながらも、仕事を適当に切り上げて、カフェオレの缶に手を伸ばした。それは暖かくて、開けて飲んでみたならば、想像を絶する甘さだった。練乳にコーヒーを溶かしているんじゃないかというくらいに甘い。ブラックに慣れた舌にはなかなかに酷な甘さである。
「日高」
「はい?」
「120円やるからブラック買ってこい」
「えー…」
日高はしぶしぶながらも伏見から120円を受け取った。自分の好み的なものを伏見に無理に押し付ける気はないらしい。そうして執務室を出るときになって、日高はちょっと伏見の方を振り返ってみた。振り返ってから、妙な顔になる。伏見がイラついて「なんだよ」とにらむと、日高は呆けた顔をして、「いや、伏見さん、どこかに行っちゃったり、しないですよね」と聞いてきた。伏見は口の中に残ってた甘さを舌ですくってから、「なんでだよ」と返した。
「いや、なんか、そういうにおいがしたんです」
日高はへらりと笑って、「いや、やっぱ、なんでもないです」と言った。へらへら笑いながら、自販機のある方へと消えていく。伏見から絶対に見えないようなところで、その笑顔は崩れてしまうんだろうなあと、伏見にはわかっていた。だから、甘すぎるカフェオレをちょっとなめて、舌打ちをした。やっぱりコーヒーはブラックでないといけない。スーツケースはまだ重たい。
END
吹雪さんへ
リクエストありがとうございました!