結局あなたの隣ならどこでもいい(三太さんへ)
秋山が「伏見さんどこか行きたいところはありませんか」と尋ねると、伏見はきまって「どこにも行きたくない」と答える。どこにも行きたくないというくせに、そのあとほんとうにどこにも連れて行かないと、ただだまってタンマツの画面だけ見つめはじめる。かといって、どこかに連れ出してみても、そんなに楽しそうな顔はしない。秋山は伏見と一緒にいたって、なんにも楽しいことがない。けれど、楽しいことがないからって、一緒にいないわけにはいかないのが、恋人というものだ。伏見も、秋山と一緒にいて楽しそうな顔なんて、一度もしなかった。けれど、気づいたら一緒にいるのだ。そういうこともある。
「水族館に行きたい」
伏見がそう言ったときに、秋山はちょっと本気で「別れ話でもされるのだろうか」と思ってしまった。それくらい突拍子もなく、ぼんやりとして、それは要求のはずなのにひんやりと冷めていた。まるで水族館というものをぎゅっと濃縮したようなたたずまいだった。伏見がそんなことを言いだしたのは、休みの前の日だった。この世の中に24時間やっている水族館なんてものが存在していればよかったのだが、生憎秋山の知る限りではそんなものはなかった。だから、次の日にした。秋山と伏見の非番が重なっているのはたいてい平日なので、明日も平日だった。平日の水族館、というと、なんだか小説のタイトルのようだ。ハッピーエンドを迎えそうにない小説のタイトルだと秋山は思った。そのあとに、秋山は「どこの水族館にしましょうか」と伏見に尋ねてみたけれど、伏見は「どこでもいい」としか答えなかった。
次の日に、二人は当たり前のように手もつながずに、水族館にきた。大きくもない水族館だ。ただ館内を歩くだけなら、10分程度で終わってしまうような小さな水族館だ。伏見と秋山はガラガラのそこを、静かに、ゆっくりと歩いた。水族館の中というのは、総じて暗いものだ。水槽だけが青く光っている。クラゲが何種類も、いろんな色に照らし出されながら泳いでいる水槽もあった。秋山はきれいだと思った。伏見は自分から「いきたい」と言ったわりに、とくに楽しいことはしゃべらなかった。べつに秋山はおもしろいことを話す伏見を期待していたわけでもなかったので、たまに「きれいですね」とか「すごいですね」とだけぽつりぽつりと話した。
「そういえば、俺、水族館くるのかなり久々です。何年ぶりだろう。最後にいったのは、たぶん学生のときだったかもしれません。大きなとこで、廊下の天井とか、壁とか、全部水槽でした」
「ふーん」
「ここも、入口のとこにおっきな、天井まである水槽ありましたね」
「そうだな」
「魚とかいっぱい泳いでて綺麗でした。あ、いや、今見てるちっちゃい水槽がだめとかそういう話じゃないですけど」
「はぁ、今見てんのチンアナゴの水槽ですけども。俺はむしろはやく移動したいくらいには気持ち悪いなって思ってますけども」
「え、あ、ほんとだ。気持ち悪い」
「秋山さん、あんたこれ楽しいですか」
秋山はちょっとすぐ回答してしまったら、それはいけない誤解を生みそうだと思ったので、すこし考えた。少し考えたら答えが出なくなってしまった。とにかく、もう少し違う水槽を見よう、という話にすり替えて、秋山は先に進んだ。手をひっぱったりなんかしていないけれども、伏見が後ろからついてくるだろうことはわかっていた。わかっていたから、そんなことはしなかったのだ。
その水族館は、出口のあたりにまた大きな水槽があった。どうやら入口の水槽と同じ水槽らしい。だいたい同じ種類の魚が泳いでいた。壁でうまいこと仕切っている。秋山は「これが最後みたいですね」と言った。それはもちろん水槽の話だったけれど、なんだか違う意味にもとれてしまって、言ったあとで困惑してしまった。ついでに伏見が「最後だろうな」と言ったので、またこんがらがってしまう。
けれども秋山は、ちょっと考えた。こんなに、一緒にいて楽しくない人なのに、どうしてか伏見と別れるという選択肢だけは自分にないのだ。これはほんとうに恋なのだろうか、と振り返ってみると、どうにも恋らしくない。伏見を好きかと言われると、よくわからなかった。好きでも嫌いでもない。かといって、無関心かというとそうでもない。ぼんやりと浮かび上がる水槽に照らされながら、秋山は「伏見さん」と言った。伏見は視線だけで「なんだよ」と返してきた。
「伏見さん、俺といて楽しいですか」
「いやべつに」
「即答はやめてください、傷つきます」
「だってあんただって俺といて楽しいかよ」
「いや…それは…ほら…」
「あんたなんか俺が水族館いきたいっつったらなんか、ああ、別れ話か、みたいな顔したくせに」
「え、いや、まぁ、だって、そうじゃないですか」
「そうだけども」
「えっ別れ話するんですか」
「してほしいんだろ」
「いやそれは違いますけども」
「なに、俺と別れたくないの」
「うーん…別れたくないっていうか…」
「はっきりしろよ」
「いやそれ伏見さんこそはっきりしてくださいよ。伏見さんは俺と別れたいんですか」
会話はそれぎり途切れてしまった。だから二人でぼんやりと同じ水槽を眺めた。入ってきたときと同じ水槽だ。おんなじ魚が泳いでいる。泡を吐いている。底の方には死んでいるやつもいた。縁起が悪い。秋山も伏見も、もうとくに話すこともなかった。いや、ほんとうはたくさんあるのだろうけれども、話したいとは思わなかった。どこにも行きたくないと思った。思えば、秋山が伏見を連れ出したところだって、別に行きたいと望んでいたところではなかった。秋山はただなんとなく恋人というものはデートしないといけないような気がして、そうしていただけだ。ぼんやりと水槽を眺めながら、秋山はぐらぐらとそんなことを考えた。そうしてから、くすくすと笑って、「かえりましょう」と言った。伏見は「ああ」と答えた。そんなものなのだなぁと思いながら。
END
三太さんへ
リクエストありがとうございました。