もしも世界中が雨だったなら





昨晩は雨だった。弁財はさあさあと冷たく降り注ぐそれの音を聴きながらベッドに入ったので、よく覚えていた。勤務を終えたあたりから降り始めたので当然傘なんてものは持っておらず、弁財は短い距離ではあったが雨にあたってしまっていた。朝目覚めた時にはもうその雨は止んでいたのだけれど、少し身体が冷えたのか、頭痛と寒気がした。けれど体温は平熱で、とりあえず目を覚ますためにコーヒーを入れる。ほんとうはホットミルクのように優しいものがよかったのだけれど、生憎牛乳は切らしてしまっていた。なんだか不思議な朝だった。脚がふわふわと浮いたようになっているのに、空気はしっとりと重たい。部屋の中まで水々しい空気が入り込んできているようで、朝なのにずっと空気が落ち着いていた。コーヒーの匂いがそれに溶け込んで、ゆるゆると弁財にまとわりつく。どことなく清々しいのに、気の重たい朝だった。

明け方にやっと雨があがったのか、それとも夜半によほど強く雨粒が降っていたのか、外に出ると濡れたコンクリートや湿った土の匂いと一緒に、かすかだけれどまだ雨の匂いがした。独特の不純な水の匂いだ。特に嫌いではなく、どちらかというとしっとりと落ち着いたそれが、弁財は好きだったのだけれど、なんだか今日は頭痛のせいであまり好ましく感じられなかった。靴の裏を汚す泥や、埃の沈んだ水さえ鬱陶しい。髪もいつもよりペタペタと頬に張り付いていけなかった。こういう日はとことんついていないような気がしてくるから苦手だ。何をしてもうまくいきそうにない。ごろごろと転がるように落ちていくのだ。調子や気分が、運気までも巻き込んで。

「なんか今日、伏見さん具合悪そうっすね」

弁財が頭痛をこらえながらデスクに座っていると、これから外回りらしい日高が声をかけてきた。どうして自分に声をかけてくるのだろうと弁財は首を傾げてしまう。そうしてから、日高とのペアは誰だ、と確認すると自分だった。毎朝外回りの当番表はチェックしているのに、今日に限って見落としていた。日高は弁財が忘れてしまっていたことには気づいていないようだったが、弁財は自分の失態に頭痛の増す思いがした。

「昨日、勤務時間明けに雨が降っただろう。それに当たったんじゃないか」
「あ、そういえば。でも、俺もあたったけどなんともないっすよ」
「馬鹿は風邪をひかないという言葉くらい覚えておけ」
「ひどい!」
「・・・そうだな、俺が準備できるまでもう少しかかるから、その間になにか温かい飲み物でも差し入れてくればいいんじゃないか」
「え、あ、そうっすか。じゃ、お言葉に甘えて」

弁財は書きかけの書類をどうにかキリのいいところまで書き上げ、保存した。見ると日高は伏見にホットミルクを差し入れている。弁財の視線に気がつくと、すぐに踵を翻してこちらへ戻ってきた。なんだか申し訳ない視線を送ってしまったなぁと、弁財は溜息の出る気分だった。他意はなかったと信じたい。

外へ出てみると今日は随分と天気が良かった。朝まで雨が降っていたようにはとても思えないほど空が青い。昨日のうちにたまっていた埃を全部落としてしまったのかもしれなかった。空気も澄んでいて、気持ちがいい。それでも体調はよくならず、弁財は外回りの最中になにかと話しかけてくる日高の話を半分程度しか聞けていなかった。返事にどことなく欠伸のようなものを交ぜていると、日高が「なんか、今日弁財さん悩み事でもあるんですか」と首を傾げてきた。弁財は「いや、別に」と返してしまう。そうすると沈黙ばかりが降り積もって、いけなかった。

「ほんと、俺、弁財さん怒らせるようなことしました?」
「そういうわけじゃない」
「じゃあ、なんでそんな言い方するんですか」
「・・・なんて返せばお前は納得するんだ」
「それは、難しいですけど」
「ほんとうになんでもない。ただ、行きがけに書いていた書類にミスがあったような気がして、それが気になってるだけだ」
「なんだ、じゃあ、はじめからそう言ってくださいよ」
「・・・そうだな」

ずきずきと頭が痛んでしょうがなかった。なんだか寒気も増して、本格的に風邪を引いてしまったらしい。このぶんだと熱も上がってきているだろう。妙に頭が冴えているのに、どこかふわふわと浮き足立っているような感覚があった。目の付け根のあたりが鈍く痛んで、それが視線を動かすのを邪魔している。天気はいいのに風は冷たくて、何か温かいものが飲みたいと思った。ホットミルクのような、優しいものが欲しい。

高架線の下に差し掛かると、手前の信号が赤になってしまった。しょうがないので立ち止まり、信号が変わるのを二人して無言になりながら待った。この信号は長い。何か話題を振らなければと思うのだけれど、それは弁財より日高が得意だった。けれど日高はただぼんやりと信号を見つめている。もう弁財が適当に返しすぎたせいで話題もないのかもしれなかった。なにをしているのだろうと思ったところに、冷たい何かが降り注いでくる。

「・・・っつめた・・・」
「え、」
「・・・雨・・・?」

上を見上げると、高架線から雨水が落ちてきているのだった。それは弁財の立っているところだけで、日高には当たらない。昨日の雨がまだ降り続いているようだった。ぱたぱたと、不純を増した水が、弁財の髪に、頬に、服に降り注ぐ。熱が邪魔をして脚がもう動かない。信号も変わらない。弁財だけが雨に降られている。涙のようなそれが、どうにも、冷たかった。温かい飲み物が欲しいと思った。ホットミルクのような、それが。


END




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