実にかなしい春がきた






秋田なんて、なんにもない。なんにもないけれど、ちょっと電車に乗ったり、バスに揺られたりすると一応都市のようなところにはたどり着く。田舎なところと違って、都市部はそれなりに栄えている。といっても、地方都市なのだけれど。地方都市っていうのは、わりと腹黒い。東京みたいに誰もが誰しもに興味を持っていない雰囲気なんてそこにはなくって、誰かが誰かとかかわりたい、出会いたいという変な空気が澱んでいる。無関心を装っているのに、すれ違う人の顔をいちいち確認している。紫原はそれが気持ち悪いと常々思っていた。紫原は目立つ。大きいから。だいたいの人が紫原を振り返る。けれどそれはかかわりたいとか、話しかけたいとか、もしくはうまいこと夜に持ち込みたいとか、そういう視線じゃない。そういう視線を向けられるのは、だいたいが氷室のほうだ。氷室はどうしてかわからないけれど、そういう空気をしている。さびしくて、なぐさめてほしくて、一人じゃ寝られないという空気を出している。そしてそれはきっと本心だ。紫原は今まで氷室をそういうふうに見たことはなかった。けれど、誰か(それはほとんどの場合が名前のわからない他人だ)は、確実にそう思っている。そうして、夜に氷室をひっぱりこもうとする。冷たくて、さびしくて、ふたりぼっちなのにひとりぼっちにしかなれない、そんな夜に。

紫原はその日、ひとりで街中を歩いていた。ぶらぶらと。はじめはスポーツ用品を買いにきていたのだが、途中からそんな気分ではなくなってしまったのだ。べつに理由があったわけじゃない。ただ、なんとなく荷物を持ちたくない気分になった。だから、紫原はポケットに財布だけ入れて、ぶらぶらと歩いていた。夕方くらいまで、ぶらぶらしていた。なんにも持たずに。そうしたら、運悪く氷室を見かけてしまった。氷室に会うことは別に、それじたいは運が悪いことじゃない。運が悪かったというのは、氷室が知らない男に声をかけられていたということだ。紫原はちょっと立ち止まって、それをちゃんと見てみた。男は明らかにお金の数を指し示す小さなジェスチャーをしていて、氷室はいつもの人のいい顔でうなずいた。運が悪い。

「なにしてんの、室ちん」

紫原が、しょうがない人だなぁと思いながら氷室に声をかけると、後ろめたいことをしていた男は紫原の風体にぎょっとして、どこかへ駆け去ってしまった。よくよく見ずともさえない男だ。スーツだったから、きっとサラリーマンだ。氷室はちょっと困ったような顔になって、「奇遇だね」と言った。肩をすくめて、アメリカ人みたいなしぐさをしてみせる。そのしぐさに乗って、なんだかだらしない香水のにおいがした。別段安くないだろうに、なんだかすかすかで、中身のつまってない、うわべだけの香水の匂いだ。ただれた夜のにおいにも似ている。

「今帰るとこ?」
「…そうだね、帰ろうか」
「うん、じゃあ、一緒に帰ろう」
「そうだね」

氷室はきっと、自分がなにをしようとしていたか、どこへ行こうとしていたのか、そんなことは覚えていない。さっきの男の顔だって、もう覚えていない。それはとても悲しくて、さびしい。コンビニエンスだけど、便利じゃない。不便なことばっかりだ。氷室と紫原は並んで歩きながら、白い息を吐いた。もうずいぶん寒い季節になったなぁと思う。恋人が欲しい季節だ。抱き寄せてくれるぬくもりがほしい。けれど紫原は、氷室は抱きしめても冷たいんだろうなぁと、思った。

「ねぇ、室ちん」
「なんだい、アツシ」
「さびしいの?」
「…そうだね、最近寒いしね」
「さっきのさ、そんなんしてももっとさびしくなるだけだよ。寒くなるだけだよ」

氷室はまいったな、という顔になってから、「じゃあ、アツシがかわりをしてくれよ」と言った。紫原は、それってなんのかわりなのかなぁと、ちょっと考えた。さっきの人のかわりなのか、それとも、恋人のかわりなのか。きっと、どっちもおんなじ意味だ。どっちもおんなじ軽さをしている。

「ジョークだ、アツシ」

氷室はそう言って、くすくすと笑った。氷室はどうしてこういうときに笑えるんだろうな、と紫原は思った。そこから、「ああ、へんなとこみられてしまったね」とか「アツシは今日こんなところになにしにきたんだい?」とか、どうでもいいことを氷室はべらべらとしゃべった。紫原は眉根を寄せて、むっつりと黙って、考えていた。その口は閉じられるべきだと考えていた。そうして、なら、キスをしようと思った。だから、氷室にキスをした。キスをして、それから、「セックスしようか」と言った。



「かわりになってあげるよ。なんのかわりでも、俺はかまわないよ。なんのかわりをしてほしいの。ねぇ、室ちんがほしいものは、なんなの。ほんとにほしいものは、なんなのさ」


END

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