さよならの温度






日高がざあざあとたたきつけるような雨の中でぽつりとだけその子の名前を呼んだ。僕にはざあざあとしか、聞こえなかった。あれからもうずいぶん時間がたっている。日高は雨の日を選んだ。あの日は小雨だった。けれどその雨は、いつの間にか日高のなかでおおきな雨雲を呼んで、こんなに深く、強く、日高を揺さぶっていたらしい。日高がざあざあと、また口をひらいた。きこえないよ、きっとその人にも、もうきこえてなんか、いないんだよ。


日高が風邪をひいた。生まれてはじめて風邪をひいたらしい。真っ赤な顔で、ぐすぐす言いながら、いっつも食べ物のことくらいしか考えていないのに「なんにもたべたくない気分」と言った。熱は39度まであがったし、喉が痛くて飲み物もうまく飲み込めないみたいだった。僕は「風邪のときにはポカリだよね。アクエリアスより、なんだか優しくて、甘くて、ほっとするよね」とらしくないことを言った。そうしたら、日高は、「そんなの知らない…風邪ひいたこと、ないから」と言った。僕は「そうだね、そうだった」と言って、室温にもどったポカリを、日高の枕元に置いた。ちゃぷんと音がして、それぎりだった。

風邪をひくと、僕みたいな人間でも、ぐっと寂しくなる。熱の波に浮かされて、たったひとりぼっちで、寂しくなる。よかったころの体調なんか思い出せなくて、寝ているのもつらくて、何度も目が覚めて、そのたんびに真っ暗なところを見つめるんだ。そうして、もしかしたらこのまま死んじゃうかもしれないなんてことを、考える。たったひとりで。けれど、いつもそんなににぎやかな中に身をおいているかというと、そうでもない。さわがしい喧騒の中で、自分がひとりじゃないって証明できるひとなんて、なかなかいない。だれだってひとりぼっちだ。人間と人間が可能な一番近い距離にいたとしたって、結局、それはひとりとひとりだ。そのひとりきりだっていうのを、風邪のときはごく身近に感じる。それだけのことだ。けれど、それだけのことが、とても、さびしい。

日高は風邪なんてひいたことがなかったから、いつか僕が辛そうにしていても、ポカリじゃなくてアクエリアスを買ってきた。そうして僕が「ポカリがいい」って言うと、ちょっと怒った顔になって、「水分は水分だろ」って、きんきんに冷たいそれを僕の枕元に置いていった。僕はしゃべるのもつらいのどで、そうだね、そうだった、とつぶやいた。じっとりとした汗が気持ち悪くて、なんにもいらないのに、ポカリだけはすっきりと甘ったるくて、僕はそれだけがほしかった。そんなものも手に入らないなんて、この世の中は甘くない。ただ、そう思ったのを覚えている。

日高はいつかそんなこともあったとか、きっと覚えていないけど、でも、ポカリの甘ったるさに口をゆすいで、少しだけほっとしたような顔になった。僕はちょっとむっとして「あんな雨のなかでずっと立ってるからだよ」と言った。日高はなんにも答えない。喉が痛いらしかった。僕は日高が寝込んでからずっと、日高の近くにいる。けど、日高はずっと寂しそうに、まどろんで、目覚めて、咳をして、ポカリを飲んで、またねむりにつく。そうして、まどろんだ先の暗闇で、誰かの名前をよんでいた。日高は生まれてはじめて風邪をひいた。生まれてはじめて、つらいことをなんにもしないで、ただ理不尽に受け止めている。日高のうわごとは、ちゃぷちゃぷと部屋のなかを海に沈めて、そのなかであぶくみたいに、はじけて消えた。僕はそのあぶくをぱちんと消してしまうために、いつも、そばにいる。日高が名前を呼んだら、きっとすぐに返事をする。僕はちゃんと、そばにいる。けれど僕が返事をしたためしはいちどもなかった。日高は違うひとばかりに呼び掛けるから。ざあざあと、雨のように、呼ぶから。

日高がもうなんかいめかわからないそのあぶくを吐き出したとき、僕はたった一言、「そのこはもういないんだよ」と言った。ざあざあ。日高は苦しそうに、「うん」と答えた。ざあざあと、音がする。僕は「さみしい?」ときいた。ざあざあ。日高は答えない。きっとこの雨の中にいるうちは、誰にも届かないと、わかってしまったからだ。


END


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