そして君は大人になる






不思議なことにこんなけったいな世の中には言葉という小難しいものが山ほどあるのに、人は言葉にできないものを見たときに、それをどうにかこうにか言葉にしようとする努力なんかかなぐり捨てて、「言葉にできない」という言葉にする。だから言葉にできないことはさまざまな面持をして、たたずまいをして、見つめ返してくる。言葉にだって、できないのに。

道明寺は加茂に言葉にできない感情を抱いていた。今でも19歳というまだまだ若い年のくせに、道明寺はきっと、自分が高校生だったなら、この感情にただありきたりな名前をつけただろうなぁと、思う。しかしながら19歳という大人免許が下りる間近の年齢になってしまった道明寺は言葉にできない。加茂はどうなのだろうと思う。大人免許が下りて久しい加茂はこのどうしようもなく狂おしいようで、静かで、ふつふつと酒が発酵していくように泡立つ感情を、いったいどういう言葉にして、理解しているのだろう。道明寺はまだ法律的に酒を飲むことができない。かといってその法律を遵守しているほど真面目でもない。けれどしかし加茂や日高や布施はビールをおいしいおいしいと言って、飲んでいる。道明寺には苦いばかりの液体を、これがないと生きていけないといいながら、飲んでいる。

たいていの仕事には繁忙期があって、それと対比になるように穏やかな時期もちゃんと用意されている。それに程度の差はあるだろうけれど、たいていの仕事がそうだ。セプター4なんてところはそれが顕著すぎていけない。暇なときはもうデスクに寝転んでいても秋山と加茂にこっぴどく叱られるくらいだ。そのくせ加茂も秋山も見つからないようにひっそりとサボっている。見えるところでサボるか、見えないところでサボるか、それはそんんなに重要なことだろうか、と道明寺は考える。それを加茂にぶつくさと愚痴ってみたならば、加茂は「建前というものは大事なんだ。何事にも」と真面目そうに面倒そうな顔をした。

「じゃあ建前のない世界を作ろう」
「お前はまたそんな馬鹿なことを。無理に決まっているだろう」
「なんで」
「建前は大切なんだ」
「なんで」
「人と人が一緒に仕事をしたりかかわりあったりしていく中で本音ばかりをぼろぼろ言っているわけにはいかないだろう」
「なんで」
「そうだなぁ、そう、たとえば、俺がお前のことを好きだとする」
「なんだよ、その言い方、好きじゃないみたいじゃないか」
「誰もそんなことは言ってない」
「じゃあ好きなのか」
「なぁ、話がそれるんだが」
「なんで」

道明寺がなんにもかんがえてませんという顔で何度も首をかしげたあたりに、加茂は眉間のしわを深くした。深くして、多分小さく舌打ちをした。あ、そういうのいけないんだ、と道明寺が言おうとしたところに、加茂が口を開いた。

「…もっとわかりやすいたとえにしようか。俺は今お前の『なんで』という言葉がすごく嫌いだ。ものすごく嫌いで嫌いでしょうがなくてなんならお前自体も面倒くさいなと今思い始めたところだ。俺は自分でいうのもなんだが短気なことに定評がある。そろそろお前をどうにかして黙らせてやりたいと考えている。ほんとうに不快だ。不快で不快でしょうがない」
「な…」
「なんで、と言ったら俺は多分お前のその小生意気なふわふわパーマの中身のつまっていない頭に今飲んでいるコーヒーをぶちまけるが」
「ひどい!」

加茂はすっと眉間に寄せていたしわを少しだけゆるめた。ほんの1ミリ程度かもしれない。そうしてから加茂はいつもしているように深い溜息を吐いた。短気なことに定評のある加茂はよく溜息をついて自分のペースを戻そうとする。道明寺はマイペースなことに定評がある。はやくったっておそくったってそれは道明寺のペースだ。だれかのために崩してやる義理はない。なのに加茂はそんな義理を通そうとする。あと一年したら自分もそういうことをしなければいけないのだろうか、と考える。多分むりだ。

「今嫌な気分になったろう」
「うん。やばい、あと三秒長く続いてたら加茂の股間に狙いを定めてた」
「表現としてどうかとは思うぞ、それは。しかしまぁそういう諍いを回避することが、大事なんだ」
「な…あ、いや、」
「なんでかは今の気持ちを考えれば簡単にわかるだろう」
「うん」
「ならいい」

道明寺はしかし、そういえば加茂はさっき「俺がお前のことを好きだとする」という仮定を使おうとしたなぁと思い出した。どうしてそんなことをしようとしたのだろう。道明寺は考える。そうして、そうか、好きだったら好きということを隠しておけなくなるのか、と思った。けどそれはなんだか恰好のつかない答えのように思えた。大人の恋というのは面倒だ。建前に縛られて、まわりの目を気にして、ひっそりとあまやかに、ほろ苦く、酒のように透明で、密度と熱量がある。透明な水を飲むようなことはきっともうできない。大人免許が下りてしまったら、きっと道明寺もさすがに少しは建前を使うだろう。今だってきっといくつか使っている。もうほんとうのことだけで気ままに生きていられるような年齢ではなくなってしまった。それはなんだかすこしだけ、さびしい。

きっと大人になってしまったらなくしてしまう言葉が今道明寺の手の中にはあった。その言葉はきっと今使ってしまわなければどこかへと消え失せてしまう。それは建前だとか、外聞だとか、そういう濁流のうちだ。それはとてももったいない。まだ酒のように発酵してはいない、ただただのど元を通り過ぎるソーダ水のような面持をしている。気持ちのようにふつふつと、小さくあぶくが底からあふれてしまっていた。きっと今しかないのかもしれない。この気持ちを覆い隠してしまう建前を、道明寺はまだ持っていなかった。けれど言葉にはできない。言葉にしてしまうのは、とてもむつかしかった。むつかしくて、それをうまい具合に言葉に収めるにはきっと大人にならなければいけない。これもまた、建前だ。特別な感情のはずなのに、ありきたりな言葉にするのはきっと、建前だ。

「加茂、あのさ、」


END


ういひさんへ
リクエストありがとうございました


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