恋のプール





もう夏が終わるなぁと日高は自分のではない部屋の隅っこに体育座りしながら思った。どろどろと汗に混ざって自分の大変なところも溶けているのではないかと思うような暑さも幾分和らぎ、あっこれは熱中症だと言って仕事をさぼる程度の暑さになっていた。仮病だとばれたときのあの伏見の絶対零度を思わせる視線は忘れることができそうになかった。ひと夏の思い出なんてそんなものだ。それから日高は今年の夏には随分と甘いようで苦いようで形容しがたくさらには奥深く、その深さは地球を突き抜けて遥か彼方のブラジルにまでつながっているのではないかというひと夏の経験をした。そこまでくると一周廻って浅いのではないかという心持ちもしてくるが、それはケツの穴程度には深い。日高はまた膝を抱えてちょっと泣いた。

「あのさぁ、いつまでそうしてんの」
「あきやまさん」
「もう一週間も前のことなんだからさぁ、そろそろ立ち直ろうよ」

ここは日高の部屋ではないと先刻述べた。ここは秋山の部屋だった。秋山は遠慮することなくすぱーと煙草を吸って見せる。とても恰好がついていた。とても恰好がついている。悲しいくらいに恰好がよかった。この男になら抱かれてもいいと日高のなんだかいけない部分が溶けだしてしまう。けれど日高は男だ。男として生まれたからには童貞というけったいなものを現世に捨ててからこの世に去りたい。しかし日高は先日秋山によって処女という男にも存在していたのかと目を見張るようなものをするっと奪われてしまったのだ。持っていないとばかり思っていた貞操はしかし、なくしてはじめてその大切さに気が付いた。涙が出るほどの喪失感があった。それはたしかに喪失感であって口惜しさだとかプライドがだとか情けないだとかそういった感情ではない、決して。そう信じたい。

「秋山さん、タバコください」
「銘柄違うよ」
「いいです」
「410円」
「一本でひと箱ぶんの金とるんすか」
「冗談だよ。100円でいいよ」
「それでも高いです」
「しょうがないなぁ」

秋山はお前にやる煙草はないとでも言うように、自分が今まで吸っていた煙草を日高の口にするりとくわえさせた。ああこういうのってなんだか恋人みたいだなぁと日高は思いながら、一口吸った。むせた。

「重い」
「12ミリあるから」
「やだ男前」
「抱いて欲しい?」
「抱かせてほしいです」

日高が苦労して一口ぶんだけ吸い込むと、秋山は「そのタバコ、何口目か知ってる?」となんだか情事を思わせる顔で笑って見せた。日高は「…一口目?」と答えた。バカである。秋山がすぱーと一口吸っているのだから当たり前に二口目なのに。

「タバコは二口目が一番うまいのに、お前がむせちゃうから」
「一口目じゃないんですか」
「二口目」
「はぁ、そんなもんですかね」

日高は殆ど吸わずに短くなってしまったそれを灰皿に押し付けてから、少し考えて、「タバコ一本ください」と秋山に言った。秋山は「しょうがないなぁ」と言ってから、日高に火のついていないタバコを一本、差し出した。日高はそれになるだけ恰好をつけて火をつけ、なるだけ恰好をつけて、一口吸った。やっぱりむせた。恰好がつかないなぁとおもいながら、その自分がすった煙草を秋山にくわえさせ、「いちばんおいしいとこです」と言った。日高が予想した秋山の反応は「やだ日高男前、抱いてほしい」だ。しかし現実というものはラッキーストライク並には世知辛い。

「二番煎じはモテないぞ」
「あっ辛い」
「どうせ俺に抱いてほしいとか言わせたかったんだろ」
「…まぁそうです」
「いいじゃないか、下で。黙って寝てれば気持ちよくしてやるんだから」
「騎乗位なら大歓迎なんですが」
「日高ってほんとおめでたい脳みそしてるよね」

秋山は12ミリもする煙草をすうっとなんなく吸い込んで、ふぅとその煙を日高の顔面にぶちまけた。これを遊女がするなら「かわいがってくださいまし」だが上司(といっても立場的には同じようなものだが)がすると「お前最近調子悪いな」だ。最近の日高は調子が悪い。なにをどうしたのかわからないくらい調子が悪かった。今日も伏見に怒鳴られ淡島に尻を蹴られ、果ては弁財に髪の毛をむしられていた。弁財は苛々が頂点にたっすると日高の髪をむしる癖がある。今日の日高は最低だった。伏見に提出するはずの書類にコーヒーをぶちまけ、ちょうどとなりに存在してしまった弁財が淡島に提出する書類まで真っ黒に染め上げた。それに慌てて布巾をとりにいったところで躓いて淡島の豊満すぎる胸に顔面からダイブしたという塩梅だ。

秋山はまるで漫画を見てるようだったなぁと思いながら煙草を吸った。ちょっと重すぎたなぁと思いながら、丁寧に肺に煙をおさめた。秋山はコロコロと銘柄をかえる。その周期は大抵秋山が恋人を替える周期に似ていた。秋山の煙草を女がマネして吸うものだからしょうがない。そういえば日高はずっと同じ銘柄を吸っているらしかった。キャスターの赤。女みたいな銘柄だと思った。だから秋山は多分日高もそういうタイプなのだろうなぁと思っていた。現実はしかしそんなセンチメンタルなものではなく、ただ先輩からもらった銘柄がそれだったというだけの話だ。なんでも甘いほうがいい。

「そういえば、どうします」
「どう、と言うと」

日高は少し口のなかで言葉を選んだ。日高と秋山は一週間前にやらかしてしまったわけなのだが、付き合うだとかどうだとかそういう話はしていなかった。けれど日高が「すき」と言ったら秋山も「すき」と言った。少女漫画であればそこから交際スタートなのだが二人まいまだにどうにもなっていなかった。秋山なんかはどうこうする以前に普通すぎてなんだか日高は「あれは夢だったんじゃないか」とさえ思っている。夢であればこの肛門になにかぶっといものをねじ込まれているようなそんな違和感を感じることもないのだが。

「俺とお付き合いしませんか」
「なんかその言い方やだなぁ」
「俺の恋人になってください」
「それもなんだかなぁ…」
「俺に抱かれてください」
「やだ」

日高はしおしおとしおれて部屋の隅に丸くなってしまった。大きな図体をちっちゃくしてなんともいじましい。しかしもとがもとの大きさでしかも22歳公務員男性だ。猫ならともかくそんなことを日高がしたって可愛さのかけらもない。秋山はため息をついた。ため息をついてから、邪魔だと言わんばかりに日高の尻のあたりをつま先でにじった。にじにじしてから「日高、俺と付き合いたいの?」と聞いた。そのかんもずっとにじにじしているので日高の尻尾がばしばしとあたるような心地がした。本人は大福をやっているのだがそれでもなんだか尻尾がうるさい。目視できれば踏んづけたのちにケツの穴に突っ込んでやるのだけれど。

「付き合いたいです」
「俺に抱かれたい?」
「抱きたいです」
「俺に、抱かれたい?」

日高の尻尾が格闘をはじめてしまった。暫くなんだかわけのわからない動きを見せたあと、大福だった日高がうんうん唸りだして、童貞が、だとかいやでもチャンスは、とか変なつぶやきが聞こえてくる。秋山は少し念入りに日高をにじった。にじっていると、なんだか足の指が疲れてきたので、日高の上に腰掛けた。座り心地がいい。

「尻に敷かれてる気がする」
「尻に敷いているからな」
「俺は尻に敷かれ続ける運命なのか」
「尻に敷き続けるからな」
「秋山さん」
「うん」
「すきです」
「うん」
「俺のことを一生尻に敷いといてください」
「うん」

秋山は短くなった煙草をするりと肺におさめた。そうして、機関車のように煙を吐き出して、キャスターの赤に銘柄を替えようと思った。甘いのも悪くはない。


END



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