Chapter 1 : one day of now 7.1






雨の音に紛れて懐かしい音楽が聞こえてきた。きっと誰もが聞いたことのある曲だ。とても有名なバンドの、とても有名な曲だ。けれど日高はその曲のタイトルがずっとわからない。歌詞もわからない。けれど、メロディーだけは知っている。どうしようもなく懐かしく思うほど、知っていた。



日高が気づいたとき、そこは見慣れない風景をしたところだった。なんとか舗装されて歩きやすい道に覆いかぶさるようにして木々がさざめいていた。夏の始まりの匂いがする。それはラムネのようにさっぱりとして、けれど甘ったるくべたついていた。道端でぼんやりとしてから、日高ははたと我にかえる。ここはどこだろうと、あたりを見回した。時刻はまだ昼下がりで、まだまだ日は暮れそうになかった。携帯電話をひらいてみると、時刻は3時半だった。日高は2時半まで大学で講義を受けていたはずで、その記憶はちゃんとあるのに、そこから先の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。久々に味わう感覚だった。そういえば、こんなのは久々だった。ずっと前から、そうではあったにせよ。


日高はちょっとした問題を抱えている。ほかのひとに言わせてみるとそれは「たいした」問題らしいのだが、日高にしてみればそれは「ちょっとした」問題だった。たまに記憶が1時間か2時間、もしかしたら丸1日すっぽりと抜け落ちてしまう「癖」があるのだ。子供の頃からそうだった。まるで、もっと覚えていなければいけないことがあるだろうと、神様に言われているみたいに、そうだった。そして、その抜け落ちる記憶は日高にとってあまり重要でないことがおおい。もしかしたらずっと重要なことかもしれないけれど、覚えていないのだからわからない。日高がどうして重要じゃないと思うのかというと、大切なことはちゃんと覚えているからだ。たとえば、感銘を受けた言葉だとか、友達との約束だとか、今日の日付だとか、家族の顔だとか、そういう物事。それらはどうしたって忘れない。日高は念のため大事だと思ったことは書き留めているけれど、それを一回だってすっぽり忘れたことはなかった。けれど日高は「ちょっとした問題」を抱えておらずとも忘れっぽかったので、そのメモをつける習慣は用心として役にたっていた。なんとなく、日記もつける。その中にも、日高が忘れた内容は何もなかった。けれど、時たま時間が鳥にでもなって飛んでいってしまったみたいにすっぽり抜け落ちることがある。いったい、何を忘れてしまっているのか。それは誰にもわからなくて、日高にだってもちろんわからなくて、それが少しだけ、怖かった。


とにかく、ここはどこだろうと日高は携帯を開いて、アプリで現在地を特定しようとした。検索には少しだけ時間がかかる。大学が終わって、徒歩で一時間ならそんなに遠くまできてはいないだろう。もしくは一時間も歩いていないかもしれない。電車にしたって、スイカの残金はそこまで遠くへいけるほど残っていなかったはずだ。けれど、日高が立っている場所はあまり都会の匂いがしなかった。湿った土と、緑の匂いがする。アスファルトに囲まれているとじりじりと料理されているような気分になるが、ここには滞留することのない、流れるような夏があった。ずっと昔に置き忘れたような夏が、ここにはあった。

携帯の画面が「現在地不明」と表示したあたりに、日高は溜息をついた。まぁそんなこともあるさ、と、とりあえず歩き出す。夏は日が長い。しばらく歩けばどこにだってコンビニはあるだろうし、だれかともすれ違うだろう。来た道を戻ろうとしてから、日高は少し笑ってしまった。来た道なんて、覚えていなかったからだ。


今朝の天気予報で見た予想最高気温はわりに高かった気がした。それでも朝方アパートを出たときは少し肌寒くて、日高は上着を一枚着た。昼過ぎにはもう暑くて暑くてそれは荷物になってしまっていたのだけれど、樹にかこまれたこの道は少し肌寒いくらいで、上着に袖を通した。どこにでもあるような七分丈のパーカーだ。日高は改めて道のあたりを見回してみた。都会的なものは何もない。けれど、田園地帯かというとそうではなかった。普通に一戸建ての家が立ち並んでいる。道もちゃんと舗装されていた。それでも東京にしては緑が多かった。不思議だと思った。そこはどこか、日高の故郷に似ていたからだ。


30分ほど歩いてもコンビニはなかった。わりと気ままに大きな通りに出ようともせず細い隘路を歩いていたのがいけなかったらしい。妙に感傷的な気分で、どこか遠くへ行ってみたいと思ったのも原因だった。日高は日が傾きはじめたのをみて、ああそろそろ本気で家を目指さないと危ないかもしれないと思った。ここにはカラオケ店も、漫画喫茶も、ビジネスホテルだってありそうになかったものだから。ならばそれらがあったら安心できたのだろうか、と日高はすこし考える。そこで一晩は過ごせたとしても、ずっとそこにいられるわけじゃない。やっぱり、ちゃんとかえるべきところに帰りたい。けれどそこはあの安いだけが取り柄のアパートなのだろうか。お金でとりあえず借りているという点ではどこでも変わらない。なら、帰る場所とはどこなのだろう。自分は今どこを目指して歩いているのだろう。ぐるぐると、考える。そうすると脚はどうして、大通りではなくまた隘路へ隘路へと進んでしまった。隘路をずっと進んでいくことなんてできやしない。いつか大通りに出るか、もしくは、「行き止まり」になってしまう。わかっていても、どうして、進むことしかできないのだ。だって、日高はもう来た道を覚えていないし、戻る道だって、忘れてしまっていた。


「…行き止まり、か」

そこは行き止まりだった。住宅と住宅の隙間、もしくは住宅と木の隙間かもしれない。とにかく、そこに続く道はないように思えた。隘路から見上げる空はもう熟したトマトのような色になっていた。気味が悪いほどに赤い。明日はもしかしたら雨かもしれない。梅雨はまだ明けていなかったような気がする。ニュースなんて天気予報くらいしか見ないくせに、その天気予報の内容もあやふやだった。いちいち覚えていられないのだ。だってそれは毎日目まぐるしく変わってしまう。だいたい暑い、だいたい寒い、雨が降る、晴れる、それだけわかっていれば、充分だ。明日が雨なところで、今の日高の状況は変わらなかった。迷子だ。二十二歳にして迷子。それも見知らぬ土地で、調子に乗った挙句の迷子。救いようがない。こうなったらもう誰でも捕まえて大通りまでの道を聞こう。日高が溜息を吐いたときだった。

「お困りですか」

振り返ると、そこには甚平を着た青年が立っていた。日高はなんとなく、きっとこの人はどこかあたたかい南の島で育ったんだと思った。けれど、「振り返るとそこには」というのはすこしおかしい。だって、日高が振り返ったところは行き止まりだったはずだ。なのに、青年がいるなんてことはおかしいのだ。

「え、えっと…」

日高が困惑していると、その青年はまじまじと日高の顔をみた。もしかしたら盗人かなにかと間違われているんじゃないかと日高は反射で構えてしまう。けれど、どうにも違うようだった。青年はアシンメトリーな髪型をしていた。それからとにかく童顔で、青年なのか少年なのかいまいちよくわからない。その青年はとにかく驚いたように日高の顔をまじまじと見てきた。それから、なんだか「出会いと別れを何回も繰り返して」くたびれたような顔になった。日高はこの人とどこかで会ったことがあるだろうかと少し考えてみたが、覚えはない。けれど少しだけ懐かしい匂いはした。ちゃぷちゃぷと水が流れるのに似た匂いかもしれない。どこにでもあるようで、日常に置き忘れたような、そんな匂いだ。
「たぶん今日中には帰れないです」
青年はまるで「明日は雨が降ります」と予想するように、そう言った。日高はもちろん首をかしげてしまう。だって、ここにくるまでにだいたい2時間しかかかっていない。今日はあと4分の1程度も残っているのに、そんなことがあってたまるか。

「どういうことっすか」
「うーん、そうですね。説明することは難しいです。説明したところで、きっと信じては…あ、いや、多分信じちゃいますね、あなたなら。うん、でもきっとちゃんと理解できないとは思います。そうですね、簡単に言うなら、時間が悪いんです」
「時間が、悪い?」
「そう。ちょうど、いろんなことが曖昧になる時間に、あなたはここの行き止まりにきてしまった。それはすごく運のいい偶然です。もしかしたら、悪いかもしれない。けど、ほんとうに、ほかの行き止まりでなくてよかった。二回目からはちゃんとここにこれるようになるみたいなんですけど、一回目はわりと難しいみたいです。運がいいんですかね」
「えっと、なに言ってるかよくわかんないんすけど」
「ああ、それもそうですね。すみません。とにかく、もときた道は戻らないほうがいいです。どこにつくかわかりません。明日の朝になったらきっとどこへでも帰れます。きっとです。だから、今晩はちょっと家に泊まっていってください」
「え」
「うーん。ちょっと僕が何言ってるかわからないかもしれないんですけど、ほんと、大事なんです。朝になったらどこへでもいけるはずなんです。でも今はどこにもいけないんです。そういう時間帯なんです」

日高は考えなくてはいけなかった。この青年はどうにも日高をからかっているようではない。かといって言っていることが全部信じられるかというと、それは無理な相談だった。誰だって急に声をかけられた人に「今は西暦何年ですか?」と聞かれれば答えるのをためらうだろう。まさにそんな感じだった。からかわれているのか、ほんとうに「そう」なのか、うまく判断がつかない。日高がうんうん唸っていると、急に、風が強くなった。雨を運んでくる風の匂いだ。

「あ、雨の匂い、ですね」

なんだか不思議な心地がした。青年はたった一言そう呟いただけなのに、日高の中のなにかが突然かちりと音を立てた。ざあざあと鳥が飛び立つ。飛び立って、どこかへいってしまう。日高にはそれをとめることができない。どうしたって、できないのだ。


気がついたら日高はそこに立っていた。あたりはもうオレンジ色の夕日に照らされている。夕方だ。そしてそこは見慣れない隘路だった。けれど、行き止まりではない。道の先がある。そこになにがあるのかはよく見えなかった。そして、その見知らぬ先を背にして、これまた見知らぬ青年がいる。名前は思い出せなかった。初対面かもしれない。それに、今名前を聞いたら不自然になるかもしれない。もしかしたらこの人の名前を自分は「もう知っている」かもしれなかったからだ。日高はゆっくりと、けれど一瞬でなんとか頭を整理しようとする。いつもそうしているように。今日の講義はたしか2時半に終わって、そこからはもう思い出せなかった。まるで時間が鳥にでもなって飛んでいってしまったみたいに、そこからの記憶がすっぽりと抜けてしまっていた。久々に味わう感覚だった。そういえば、こんなのは久々だった。ずっと前から、そうではあったにせよ。
とにかく、目の前には青年が立っていた。日高はなんとなく、きっとこの人はどこかあたたかい南の島で育ったんだと思った。


日高がどうしようかと思っているうちに雨が降り出してしまった。突然の雨だ。この季節にはよくある。目の前の青年は「濡れますし」と日高の腕をちょっと強引すぎるくらいの力でひっぱった。けれど日高はそれに抗う気になれなかった。このままでは雨に濡れてしまうし、きっとこの手は自分の腕を離してくれないだろうということがわかっていたからだ。それはこの雨と同じくらい強引な空気をしていた。人の都合を考えないけれど、それが終わったらちゃんと話を聞いてくれるような、そんな空気だ。夜になればきっと雨はやんでくれる。そうしたら埃を洗い流した空に、星が流れる。


通された家は広々としていた。外からみると庭に植えられた木々や植物の蔦でよくわからなかったのだが相当奥行がある。玄関もはやりの洋風ではなく、古びてはいるけれど和風で広々としていた。一人暮らしではないようで、玄関には多めの靴が並んでいる。ひとつひとつ微妙にサイズが違ったし、青年の足よりも明らかに大きかった。父親のものだろうか、と日高は首を傾げる。すると青年が「ああ」と思い至ったような顔になり「ここに住んでる…住んでるっていうか、よく来てくれる人たちの靴なんです」と。

「家族は?」
「あ、ここの家主みたいなのは僕なんです。日高さんみたいに迷い込んでくる人がわりといて、仲良くなったり、行く場所がなければここに住んでもらったりしてるんです」

青年の口ぶりに、日高は首を傾げなくてはいけなかった。どうにも噛み合っていないようだし、果たして自分は名前を教えたのだろうかと。記憶はすっぽりと抜け落ちてしまっている。それがなくなってしまう前に日高は名乗ったのかもしれない。そして青年の口ぶりからすると日高はどうにもこのあたりに迷い込んできたらしい。見覚えのない場所だったからそれは当たり前のような気もする。けれど不思議なのだ。こんな隘路の奥深い場所に好き好んで入るようなことをどうして自分はしたのだろう、と。きっとそれほど重要なことではないだろうけれど、それは小骨のように喉の奥につっかえた。


「おかえりなさい」

青年が履物を脱いでいるあたりに、家の奥からひとり、男が出てきた。その人は日高を見つけると「ああ、迷ってしまった子だね」と薄く笑った。不思議な目の色をしていると思った。日高はぶしつけかもしれないとは思ったけれど、引き込まれるようにその目をみつめてしまった。ビー玉のようにすっきりと透明で、色がちゃんとついているのに透明なように見える。薄い水色のかかった翠色をしていた。髪の毛も、そんな色をしている。この人の目からみたら世界はどんなにかきらきらしているのだろうと思うけれど、なんだかそうしてみるのはとても恐ろしかった。よくわからなかったけれど、恐ろしかったのだ。

「俺の顔に何かついてる、かな」
「あ、いや、すみません。えっと、お邪魔、します」

日高がスニーカーの靴紐を解くのに苦労していると、青年は「あ、そういえば僕まだ名前、言ってなかったですね」とはにかんだ。日高はしゃがみこんだ低い位置から、青年を見上げる。玄関のにぶい光に、黒のような紺色のような髪の毛がきらきらと透けていた。雨の気配に、たっぷりと湿気をふくんでいる。夜空みたいな色だと思った。月の明るい、星の流れるような夜の色だ。

「僕、楠原剛です」
「くすはら?」

なんだか日高が呼びづらそうに口を動かす。ほんとうはもっと違う響きの名前のような気がした。だってあんまりにも名前の響きが角張っている。目の前の青年、楠原はもっとやわらかいような気がした。けれどどこかまっすぐで、思い切りのいい性格をしていて、とにかく正義感が強いような気がする。そんな気がするだけだけれど。そんな思考が解ける前に、靴の紐が解けた。すこしだけすえた匂いのするそれを日高は玄関の隅に寄せた。誰のかも知らない靴がとなりにある。なんだか不思議な心地がした。
「秋山さん、日高さんを居間にとおしてあげてください。僕飲み物入れてきます」
秋山と呼ばれた人は、日高に「日高って言うんだ?」と言った。見た目は日高よりぐっと大人びている。だから別に呼び捨てにされたことにとやかく言うつもりはなかった。けれど、ここで「さん」をつけられていたらなんだかそぐわないような気がして、それに首をかしげた。

「日高暁です。お世話になります。あー、雨が、止むまで」
「えっ」
「え?」

秋山が大げさに驚くものだから、日高まで驚いてしまった。秋山は「ごめん。とにかく少し落ち着こうか」と日高を居間に通した。廊下は板張りだったけれど、丁寧に掃除してあったのでホコリは気にならなかった。スリッパを出されなかったので、むしろスニーカーに蒸されたせいで足跡がつくのではと気が引けていけない。秋山は素足でぺたぺたと歩いていた。案外ずぼらなところがあるのかもしれなかった。並んで歩いてみると秋山の背はそれほど高くなかった。といっても日高は大学で1、2を争うほど背が高いので、日高からみたら大抵の人の身長はそれほど高くない。楠原の身長はずっと低かった。だから甚平なんて恰好をされていても、特に違和感がなかったのだ。あんな恰好で都心を歩いていたらさぞ目立つだろうに、ここではひっそりと空気に溶け込んでしまっている。この家の雰囲気のせいかもしれなかった。


通された居間はすっきりと片付いていた。畳敷きで、真ん中にどっしりとした低いテーブルがある。木でできた丁寧な造りのものだ。掘りごたつになっていて、冬にはこたつを出すのだろう。今の季節はなにもかけずに風を通している。縁側もちゃんとあって、大きな窓からは外の景色がよくみえた。オレンジ色を切り裂くように、細い雨がざあざあと降っている。雨はきっとすぐあがってしまうのだろう。そうしたら、帰り道を聞かないといけない。日高はそう思っていた。座布団を勧められたのでそこに座ると、どこかにはいってしまっていた力が、溜息をつくように抜けるのがわかった。いぐさの匂いといい、実家のような温かみといい、この家はどうにも人のこころもちを緩ませてくる。ともすれば微睡んでしまいそうだった。雨の音が耳に心地いい。

「日高、だっけ」
「あ、はい」
「えっと、俺はちゃんと名乗ってなかったね。秋山っていう。秋山氷杜」
「秋山氷杜?」
「うん。変な名前だろう」
「いや、どっかできいたような」

どこかで聞いたような気がした。秋山という苗字はわりにめずらしいけれど、はじめて聞くような苗字ではなかった。けれどしたの名前は独特だった。なんだか寒そうな名前だと思った記憶がある。それがどこでなのか、今ひとつ思い出せない。名乗られたわけじゃなく、日高はその漢字のかたちをどうしてか知っている。秋とか氷とかそういう字面が寒そうだと思ったのだ。

「ああ、えっと、たぶん本屋じゃないか」
「え、あ、ああ!」
日高が大げさに驚くと、秋山は少し居心地が悪そうにした。
「これでも小説家なんだ。なかなかに仕事は少ないけれど」
「そんなわけないじゃないっすか!でかい賞とって、本屋にいっぱい平積みされてて、そこで、見たのか」

日高は記憶をたぐってみて、そういえば、と思い出す。秋山氷杜。たしかに小説家だ。たしか5、6年前におおきな賞を受賞して、話題になった。そのあとの作品はあまり記憶にないが、とにかく有名なことにかわりはなかった。日高はなんだか実感が持てずに「ハンドルネームかと思ってたんですけど、本名なんですね」とおかしなことを言ってしまう。すると秋山は苦笑して「そうなんだ。みんなに言われる」と笑ってみせた。ざあざあと外で降る雨の音が、少し大きく響く。

「といっても、賞もらえたのはその本だけ。あとは細かいのにノミネートはされただけかな。今はもうなんだかぱっとしない作家になってる」
「え、あ、その」
「ああ、ごめん。なんだかこの手の話は自虐癖がついてしまってて。申し訳ないな」
「いや、べつに」

そうだ、秋山という人はたしか19歳で賞をとった。だからかなり話題になったのだ。残念ながら日高は読書といえば学校の課題でしかしなかったものでその著書を読んだこともなければ内容も知らなかった。そんな日高でも知っているくらい、当時は話題になったのだ。小説家というもののイメージはどちらかというと物静かで人付き合いが苦手でどこか陰鬱なイメージがあったけれど、秋山のすっきりとした立ち居振る舞いや言葉の端々にはそんなもののかけらもなかった。あらためて秋山をみると、彼は面立ちも整っていたし、体型にも怠惰は見られなかった。それなりに鍛えたことのある佇まいをしている。血液型でいうと絶対A型だ。無精ひげはかけらも生やさないような、そんな清潔感のある雰囲気だった。

「そういえば、さっき雨が上がったら帰るっていってたけど」
「え、あ、はい」
「今日は泊まっていったほうがいい」
「え?」
「楠原に聞かなかったのか?」
「え、あ、えっと」

日高の歯切れの悪い回答に秋山が首をかしげたあたりに、居間の障子が開いた。そこには三人分の麦茶を載せた盆を持った楠原がたっていて、傍目から見てとてもあぶなそうだった。

「大丈夫?」
「大丈夫、です!」

楠原は行儀もへったくれもなく足で障子をしめ、どうにかこうにか盆をテーブルに置いた。グラスはありきたりに透明で、氷がちゃんと入っているせいか汗をかいていた。きらきらと氷が光って、とてもおいしそうに見える。そういえば随分喉がかわいていた。日高はすすめられるままにその麦茶に口をつける。なつかしい味がした。ぱたぱたとグラスの汗が膝に落ちる。雨粒のそれにまぎれて、服を少しだけ斑にした。

「楠原、日高にちゃんと説明した?」
「え、あ、一応。今日、泊まっていき、ますよね?」
「え、あ、その」

日高は初対面の人に自分の抱える「ちょっとした問題」を話してしまうべきかどうかで少し考えなければいけなかった。この日高の「ちょっとした問題」は家族にも話していない。話せば面倒になるとわかっていたし、話すほどのことでもなかったからだ。だから、このことはじつは日高以外誰もしらない。しらないままでも今日までどうにかやってこれたからだ。ちょっとだけ記憶に問題がある。病院に行くのもなんだか恐ろしくて、のびのびになってしまっていた。進行している様子もないし、よく聞くアルツハイマーとも違うようだったから、ほうっておいてしまったのだ。この「ちょっとした問題」に病名という「かたち」が与えられてしまうと、それはなんだかとても恐ろしい形相になるような気がして、怖かった。日高にとっては「ちょっとした問題」なのだ。それこそ、手の指の第一関節だけ曲げることができない、というコンプレックスと同じくらい、些細なことと思っていたいのだ。

「えっと、もう一回ちゃんと説明するとですね、時間がだめなんです」
「時間?」
「ここの隘路はちょっと複雑っていうかほんと僕にもどうなってるかわかんなくって、この時間帯に進むのはともかくどこかに出ようと思って通っちゃうとうまいこと出られない仕組みになってるんです。出られたとしてもそこからちゃんとしたもとの道に戻れる保証はなくてですね。特に日高さんは今日はじめてなのでほんとあぶないんです」
「はぁ」
「この家に住んでる人はここに戻ってこれます。どの時間帯でももう家がちゃんと道を教えてくれるからいいんです。でも日高さんは外の人だから」

楠原はどうにもちゃんと説明しようわかりやすく教えようとはしてくれているようなのだがいかんせん内容が理解できない。日高があからさまに「ちんぷんかんぷんです」という顔をしていると、秋山が「雨があがるころにはもう暗くなっちゃってるだろう?地元の人でも道がわからなくて危険なんだ。日高はなおさら迷い込んできた人だからあぶないよって話。だから俺としても今日はおとなしく泊まっていくことをおすすめする」と助け舟を出した。楠原もそうそうそんなかんじですとうなづく。

「けど迷惑なんじゃ」
「そんなことないですよ。この家、下宿みたいなことやってるんです。秋山さんのほかにもたくさん人が住んでます。今日いるのは多分、えっと、弁財さん、加茂さん、あ、道明寺さんはお仕事かな。榎本さんも遅いって言ってたし、布施さんはイベントで遠出。あ、五島さんがいますね。えーっと」
「俺を入れて四人、今晩はいるんだ。ひとり増えたところでかわらないよ。普段は居候が七人もいるしね」
「はぁ、そうなんですか」

日高がそれにしても初対面のひとの家に泊まるのは気が引けるなぁと腕組みをしたあたりに、遠くからメロディーが聞こえてきた。時刻ごとになる地域放送だ。都心だとなかなか聴く機会のないその放送は、たしかに日高の生まれ故郷と同じメロディーをして、雨の中を伝ってきた。

「ああ、もう6時か」
「なんか、なつかしいです」
「そう。日高のとこはイエスタデイなんだね」
「え」
「こういうの、地域で違うだろう?俺のとこは遠き山に日は落ちてだった」
「イエスタデイ?」
「あれ、知らなかった?ビートルズの名盤、といっても、ビートルズの曲っていうよりは、ポールマッカートニーの曲って言われてるけど」

日高はとにかくメロディーだけを知っていたのだ。子供の頃はそれに適当な歌詞をつけて友達と歌っていた。ほんとうに適当な歌詞だ。

「じゃあねーまーたーあーしーたあおうねーみたいな歌詞だと。英語だったのか」
「ああ、小学生とか、よく適当な歌詞つけてるよね。中学かな。音楽の授業でやるのは。もしかしたら高校かもしれない」
「なんか、不思議です」
「うん?」
「名前知って、ビートルズの曲だって知ってみると、全然違う曲に聞こえてくる」
「そんなものだよ」


雨足がゆったりと遅くなる速度で、そのメロディーもするりと止んだ。不思議だった。たしかに同じ曲なはずなのに、その曲はもう違った音で聞こえてくる。日高の思い出の中に流れる「18時のチャイム」と「ビートルズのイエスタデイ」は、ぜんぜん違う曲に思えていけなかった。18時のチャイムはどうして、「またあしたあえることを約束する曲」なのに、イエスタデイは「きっともうあえないとわかっている曲」なように思えて、いけなかった。さあさあと、随分弱くなった雨が、感傷を運んでくる。どうしてここにいるのかわからなかった。当たり前のことだけれど、それがとても、寂しい。

「じゃあねーまーたーあーしーたあおうねーのあとは、どんななんです?」
「え?」

日高が窓の外を見ていた視線を居間に戻すと、楠原が首をかしげていた。なんだかキラキラした目をしている。そんなに興味を持つような内容だったかと、日高も首をひねってしまう。

「えーあー、そのときによって違ってた、気が。かえったらばんごはんおいしいねーとか、かくれんぼもうおわりにしようーとか」
「へぇ、なんだか全然違う曲みたいですね。なんだか、あったかいですね」
「あったかい?」
「あったかいです」

楠原は汗をかいたグラスを傾けて、その中の麦茶をちびちびと飲んだ。その姿を見て、日高はなんだか泣いてしまいそうになった。楠原の言葉が、よくわからないけれどじんわりとおなかのあたりをつつんで、ほぐして、ついでに涙腺までつついたのかもしれなかった。きっとこんなあったかい場所だから人があつまるのだろうと、日高は思った。カランカランと鳴くグラスと氷が、懐かしいメロディーのように聞こえる。たしかに、そう聞こえた。誰しもが聞いたことのあるメロディーだ。けれど、誰しもが作曲者も作詞家も、歌詞もわからない、ただただ懐かしい、そんなメロディー。


End

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