Chapter 3 : one year ago 3.15






春は恋のはじまりの季節だなんて、誰が言い始めたのだろう。

布施がこの下宿へ来てから、一ヶ月が経とうとしていた。布施が引っ越してきた当初は雪に覆われていた庭も、三月にはいってからはゆっくりと土の色にもどっていった。もうすぐ、ほんとうに春がくる。

布施にとって、管理人がちょっと人間らしくないということを除いて、この下宿はわりと居心地がよかった。同居人たちも一風変わってはいるが特に嫌いな部類の人間がいるわけでもない。布施は声優という不定期な仕事をしているために仕事のない時期はニートと罵られることもしばしばだったが、この下宿の住人はほとんどが不定期な仕事をしていた。楠原なんかはいつも甚平姿で、仕事なんてものはしていない。秋山も仕事は多い方ではなかったし、弁財も途切れこそしないが、仕事に忙殺される部類の人間ではなかった。加茂は料理人なので毎日朝早くに仕事へ行っていたが、道明寺はホストだなんてけったいな職業に就職している。だからこの家には布施の職業をどうこう言う人物はいなかったし、むしろ創作系の仕事をしている人が多かったので、わかりあえることの方が多かった。また、布施はひとりでこんな怪しげな下宿へ引っ越したわけではなかった。榎本が一緒だったのだ。布施と榎本は以前、同じマンションに暮らしていた。一人暮らしではなく、それぞれ家族と暮らしていたのだ。部屋の位置は布施が一階で、榎本は十二階だった。


榎本と布施は親同士の仲がよかったこともあり、小さな頃からよくよく顔を合わせていた。榎本の親は共働きだったため、よく布施の家で榎本を預かっていた。榎本は昔から高いところが苦手だったらしく、自分の部屋にいるよりも、布施の部屋にいる方がなんとなく落ち着いているようだった。変な話だ。

随分遠くへきたものだ、と布施は思った。布施の小さい頃の将来の夢はありきたりにウルトラマンだったり、仮面ライダーだったりしたのに、現在では声優なんて職業についている。まぁ仮面ライダーなんかは中の人としてやったりもするのであながち夢は叶ってしまったのかもしれない。

しかしながら声優という職業だけで食っているのは業界でほんのひと握りだけだった。布施もこの下宿にくる前はアルバイトもしてどうにか一人で暮らしていたが、この下宿にきてからは基本的に家賃というものがないので、アルバイトをやめ、声優に専念している。仕事はぽつりぽつりとだが途切れることなく入っていた。アルバイトをしなくていいということは、演技を磨く時間があるということだ。布施の年くらいでブレイクしている声優はもうちらほらいた。布施はというと、いまいちぱっとしない。多分、人気声優というものにはなれないまま、ゆったりと声優人生を送っていくことになるのだろうなぁということは、わかっていた。わかっていても、夢に見るくらいはいいんじゃないかなぁと思い続けてきた結果が、ここにある。布施は今度出演するアニメの台本を読みながら、ため息をついた。

「…ずっとお前が好きだったんだ。ずっと、ずっと、好きだった…か」

布施は今度自分が読まなくてはいけない台詞をぶつぶつと呟いて、またため息をついた。

「どういう気持ちで読めばいいんだ、こんなの」

二次元と恋というものは切っても切れない関係で、さらに言わずとも人間と恋は切っても切れない関係にあった。それなのに、布施はいままでの人生のなかで恋愛というものをしたことが、一度だって、なかった。

布施は、恋愛ができないらしいのだ。

修学旅行の夜、大抵の男子や女子が集まれば恋バナがはじまる。初恋の話であったり、最近気になる女子の話であったりするそれに、布施は一度として混ざることはできなかった。そもそも、恋愛という感情がわからない。ありきたりに、このひとと一緒にいて楽しい、ずっといたいと思う、という相手は大抵男子だったし、それを言ってしまうとゲイ扱いされるのは目にみえていた。だから布施は毎回適当な理由をつけてそういった集まりからははずれ、早めに眠りについたり、部屋を出たりしてどうにかかわしていた。

なのに、声優という仕事についてしまってからはそういう演技を求められる機会がちらほら出てくるようになった。しゃべったのかしゃべってないのかわからないようなモブキャラや、メインに関わりのないサブキャラのような役であれば特に問題はなかったのだが、最近はわりとメインキャラの役をもらうことも増えてきた。ありがたいことなのだが、そういうときはほんとうに役作りに困ってしまう。メインキャラは高確率でヒロインに恋をする病気にかかってしまっているからだ。もっと辛いのは乙女ゲームの恋愛には関わりのないキャラでオーディションを受けたにもかかわらず、ヒロインに恋をしてしまうキャラで受かってしまったときだ。演技がまったくできないというわけではないけれど、自分でやっていて、なんだかぱっとしない演技だなぁと思ってしまい、ただただ、辛い。


「そんな難しく考えることないのに」

布施が役作りで困ると決まって榎本に愚痴をこぼすのだが、榎本の返しはいつもそんな感じだった。

「そりゃあ、おまえは誰かに恋したことあるからな」
「むしろこの年で一回もひとを好きになったことがない方がおかしいよ」
「それは自覚してる」

布施がうなだれると、榎本は神妙な面持ちになった。

「…言いたくないけど…」
「なに」
「もしかして、布施ってゲイなんじゃない」
「違う」
「違うの?」
「男とキスしたいとかセックスしたいとかは思わないし、AVはちゃんと女の人が出てるやつ見てる」
「そういう生々しい話すんのやめてよ」

布施はどうせお前だって見てるもんだろう、と反論したくなったが、やめた。不毛な論争に体力を使いたくなかったのだ。

「布施ってさ、そうやって恋愛したことないとか言うわりに、彼女とかわりといるじゃん」
「…告白されて、断りきれないからなんとなく付き合った」
「リア充爆発しろ」
「なんかさぁ、違うんだよなぁ。なんか、一緒にいてそりゃ楽しくないわけじゃないけど、楽しいわけでもないし、四六時中一緒にいれるかっつーと、いれないし。別にいなくてもいいし」

布施は今まで何人かの女性と付き合ったことがあったが、決まって最後には「わたしのことほんとうに好きなの?」という質問に「べつに好きじゃない」と答えて、ビンタをくらい、終わる。そこで適当でもいいから「好きだよ」と言っておけばいいのだけれど、布施は絶対にそのひとと一緒にいたいわけではなかったし、むしろ自分の時間がなくなることの方が多いので、別れるならはやく別れてしまったほうがお互いのためだと思っていた。榎本にこの話をすると、大抵「最低」と言われる。榎本は童貞だったが、布施は童貞ではなかった。愛なんかなくったって、恋なんかしていなくたって、ムラムラするときはムラムラするし、たつものはたってしまうし、はいるものははいってしまうのだ。そしてセックスは気持ちがいい。男なんてそんなものだからソープなんてものができるし、春を売る女性は後をたたないのだ。

「お前さぁ、俺にはそんな深刻に考えることないって言うけど、お前だってなんでか高いとこダメじゃん。なんでか恋ができない俺とかわんねーだろ」
「それとこれとは話が別じゃない」
「だってそれ、原因わかんねーんだろ。同じじゃね」
「…同じなのかな」
「同じだろ」

布施がそう指摘すると、榎本は考え込んでしまった。ぶつぶつと「いや布施が恋愛できないのは生物学的にちょっとありえないことで、種を保存しようとする本能が…」と小難しいことをつぶやいている。

布施の恋愛についてもそうだけれど、榎本の高所恐怖症についても、原因らしい原因ははっきりしていなかった。けれど榎本のはほんとうに重症で、まだ外が見えていないぶんにはいいらしいのだが、エレベーターに乗るときは顔を真っ青にしているし、椅子の上にも立つことができないし、外が見えるタイプのエレベーターに乗った日にはいつか卒倒してしまったらしい。榎本が高校を卒業してさっさと就職したのもはやく十二階だなんて頭のおかしい位置にある実家から出て行くためらしかった。


榎本はプログラマーをしている。収入は安定しているし、ブラックで有名な企業なわけでもない。時期によってはいそがしいが、忙しくない時期はいつも定時であがって、帰ってくる。この下宿にきたのは布施とほぼ同時だったが、見つけたのは榎本だった。はじめ会社の独身寮に入っていたらしいのだが、どうにも規則が面倒だったらしい。高卒の収入でもどうにか暮らしていける物件はないだろうかと探した末によくわからない隘路で楠原に声をかけられた。そのとき榎本は少し悩んだのだそうだ。当たり前だ。そんなのは怪しすぎる。怪しいのだけれど、榎本には願ってもない申し出だったのは言うまでもない。そんな慎重な榎本がこの家に入居する決め手になったのは、秋山の存在だった。榎本は秋山の小説のファンで、そんな秋山と一緒に暮らせるのなら是非もないと入居を決めたのだ。そのあとにまだ部屋が残っているという話をきき、布施に声をかけた。一人ではやはり不安だったらしい。


布施は秋山の小説は読んだことがなかったけれど、単に家賃が必要ないのと、光熱費も微々たるものだったことで入居をきめた。世の中思い切りと運が大事なのだなぁと、ここ一ヶ月は実感している。距離的にはそんなにかわらないのだけれど、布施は最近なんだか自分が随分遠いところまできてしまったのだなぁと思うときがあった。どこから遠いのか、何から遠ざかったのかはわからない。けれど、なんだか今自分は遠いところにいるような気がしていた。それでも家に帰ってくるときは「ただいま」と言うし、出て行くときは「いってきます」と言う癖はついていた。だから、住む場所はここでよかったのだとも、思っていた。ますますわからない。


「そんなに悩むなら、誰かに聞いてみれば。ほら、人ならいっぱいいるんだし」

布施がぐだぐだと役作りというか、ひとつの台詞にいつまでも悩んでいると、榎本がそう提案した。そういえば、布施は恋バナというものに混ざったことがなかったためにそういう意見を誰か他の人から聞いたこともなかった。まぁそんなに重い話でもないし、そういうことをしてみるのも一つの経験だろう、と布施は思った、人生思い切りが大事だということは最近学んだことだったからだ。


「恋?」
 秋山は突飛な質問に少し驚いたようだった。
「突然こんなこと聞いて申し訳ないんすけど、役作りに必要なんす」
「ああ、そういうことね。そう、恋ってどんな気持ちなんですか?ってはなしだったね」

夕食後に布施は秋山の部屋を訪れていた。小説家の秋山であればそういった題材で小説を書いたこともあるだろうし、なにより秋山は女にモテそうな顔をしていた。だから、布施ははじめに秋山に話を聞いてみることにしたのだ。

「うーん…俺は恋愛小説はなんだかんだ書いたことがないからなぁ」
「え、そうなんすか」
「うん。だから、俺の経験的なものになるけれど」
「ぜんぜんかまわないです」
「そう。なんだか恥ずかしいな」

秋山は少し思い出すような素振りをしてから、言葉を選んでいるような顔になった。

「そうだね、そのひとがいなきゃ死んじゃうって気持ちかな」
「はあ」

布施はなんだからしくないなぁと思った。もっとこう、詩的なものを期待していたからだ。

「今言葉選んでそれかよって思っただろう」
「いや」
「まぁいいけど。…こういうのはいろんな人に聞いてみるのがいいんじゃないか?俺のは多分でもなく参考にならないと思うから」
「…そうします」

布施はしかし、口のなかで「そのひとがいなきゃ死んじゃう」と繰り返した。なんだか座りが悪い。しかしそんな人はいままでにひとりだっていなかったなぁとも、思った。


「恋…?」
「はい」

布施が次に訪れたのは弁財の部屋だった。弁財は最近調子を崩しているらしく、少し顎を尖らせていた。加茂が気にかけて消化のよいなるだけ食べやすいものを作っているようだったが、効果のほどは定かでない。しかし秋山に言わせてみれば昔よりだいぶマシ、というのだからおそろしい話だ。弁財は気だるげに座椅子に背をあずけて、少し考えた。最後に恋をしたのが随分前の話らしい。

「そうだな、まず食べ物が喉を通らなくなる」
「…いつもじゃないですか?」
「まぁ、そうなんだが。うん、胃とかじゃなくてだな、なんだか胸になにかつまったようになる気が、する」
「はぁ」
「参考にならないだろうから、こういうのは道明寺に聞くといいんじゃないか」
「…そうします」

布施はそう言ったものの、秋山のときと同じく「食べ物が喉を通らなくなる」と口の中で繰り返した。なんだかお腹のすく話だなぁと思いながら。しかし座りが悪い。


「は?恋?」

布施は弁財に言われたとおり、道明寺の部屋を訪れた。道明寺は今日は仕事がないらしく、上下ジャージというなんともホストらしくない恰好をしていた。しかし道明寺はたしかまだ未成年だったはずだ。法に触れないのだろうか。たぶんうまく年齢をごまかしているのだろうけど。

「落ちるもんだろ。そんときになんねーとわかんねーわ」
「恋したことないんですか」

布施は道明寺より年上だったけれど、道明寺がなぜか「ここでは俺のが先輩なんだから敬語を使え」とわけのわからない理屈でリスペクトを強要しているので布施も榎本も道明寺には敬語だった。しかしながらなんでか知らないがそのほうがしっくりくる。不思議だなぁとは思いつつも、布施は道明寺にはそれなりな敬語を使っていた。

「あるさ、そりゃ。だから言ってんだろ。毎回違う」
「はぁ」
「落ちるもんだから、違うんじゃねーの。落ちた穴の中に竹槍が生えてるか、クッション敷かれてんのか、水が溜まってんのかもわかんねーだろ。そもそも、落ちたのは穴なのか、海なのか、谷なのかもわかんねーんだから」
「…なんか、秋山さんよりすごい詩的なんすけど」
「うっせーな。俺は眠いんだよ。もういいだろ」

道明寺に部屋を追い出されるようにしながら、布施は「落ちるものかぁ」と呟いた。座りはいいが、どこかで聞いたようなフレーズだ。


「恋ってどんなもんですか」

布施がそう加茂に尋ねると、加茂は突飛な質問に、少し首をかしげた。布施は用意しておいた紙をペンを取り出して加茂に渡しつつ、「いや、役作りで必要なんです」と説明をひっかける。それで納得したらしい加茂は、少し考えた。そうして、今日は調子がいい日だったのか、布施の近くに顔を寄せた。紙とペンは無駄になってしまったらしい。

「相手に何か伝えたくなるな、俺の場合」

加茂の声はかすれかすれで少し聞き取りづらい。調子が悪いとまったく出ないし、調子がよくてもこんな調子だった。しかし道明寺に聞いた話、ここにくる前までは調子がいいだとか悪いだとか、そういうこと抜きに全く声が出なかったらしい。どうして出るようになったんだろうなぁと布施はわりと疑問に思っていた。しかし、道明寺ですら思い当たるふしがないらしく、ただ首を傾げるばかりだった。
道明寺も味覚障害をもっていて、以前はまったくものの味がわからなかったらしい。しかしながらここに住むようになってからはたまに「甘い」だとか「苦い」だとか、わずかながらに感じられる時期がときたま訪れるようになったそうだ。秋山については詳しく知らないが、弁財の件もある。この家にはなんだか不思議な力でもあるのだろうか。あるのであれば、自分もいつか恋ができるようになるのだろうか。布施はそんなことを考えながら、「何かを伝えたくなる」と口の中でつぶやいだ。


「結局さぁ」
「うん」
「決まったかたちってのが、ない」

布施がそうため息をつくと、榎本は「そんなもんでしょ」とそっけなくかえした。布施は先輩たちの部屋めぐりを終えると、また榎本のところへ戻ってきていた。

「だって、愛とか、恋とか、ぜったいに目に見えないじゃん。目に見えないものに決まったかたちがあるわけないでしょ」
「まぁ、そうなんだけど」

布施はだからこそ困っているのだ。

「だから、はじめにいったじゃん。難しく考えすぎなんだって」
「そうだけど」
「そうやって難しく考えて、こうじゃないからこれは違うとか、そんなじゃないからあれは違うとか考えてるから余計わかんなくなるんじゃないの」

布施は一瞬反論しそうになって、やめた。ひと呼吸いれてみると、そのとおりだと思ったからだ。

「やべ、返す言葉もねぇ」
「もう適当な人好きになっちゃえば」
「え?お前とか?」
「僕は女の子が好きだから布施は無理」
「ですよねー」
「布施ってほんとにゲイなんじゃないの?」

榎本は冗談めかして言ったけれど、布施は真面目に考えてから、うなだれた。

「わからん」
「やめて。僕布施と友達してるの怖くなるから」
「だって、今まで女の子好きになったことないし」
「男の子も好きになったことないでしょ」
「そうだけど、お前が言ったんじゃん」
「そうだけど」

布施はほんとに男が好きだったならどうしようかなぁと思った。男に恋なんてものをしてしまったら、そりゃあ辛いだろうなぁと、思った。布施は声優であるからして、同性愛のCDに出演することもあった。そこに描かれているのは幸運の賜物な同性カップルというか、妄想の産物というか、とにかく非現実的だった。現実の同性カップルへの風当たりはまだまだ強い。

同性愛の作品はなんだかんだ台詞を読めばいいというか感情移入のしようがないというか、人によっては深くは考えないようにしている場合もある。逆にしっかりと役作りをしてくる人もいる。布施は深く考えないようにして台詞を入れることが多かった。もちろんあまり好きな仕事ではない。だって同僚の男の喘ぎ声を聴いたり、逆に喘がされたりするのだ。深く考えてしまったら精神崩壊をおこしてしまう。それに深く考えすぎた結果股間が大変なことになってしまったという先輩がその件でずっとゲイ扱いを受けているという事例もある。布施はここまで考えて、なんだか考えている内容が横道どころか隘路に迷い込んでしまっているような気がしてきた。

布施は一応女の子と経験がある。一度でもなく、もう数えるのが億劫になる程度には、ある。そういった行為を、CDのように男とできるだろうか、とかんがえたときに、どうなんだろう、と思い、榎本を見てみた。

「なに?」
「…いや、俺お前のこと抱けるかなって思って」
「やめて」

榎本は本気で嫌そうな顔になった。

「…ごめん。正直、悪かった」


しかし、正直、抱けなくはないと、思った。抱かれるのは御免だったが、雰囲気とシチュエーションさえ揃ってしまえば、するっといけてしまうような気がしてしまった。しかしそれによって榎本を意識することがあるかというと、別になかった。榎本でなくてもいけてしまうからだ。秋山だろうと弁財だろうと加茂だろうと道明寺だろうと楠原だろうと。そう考えてから、布施は「まてよ」と思った。そういえば、この件に関して、楠原にだけは話を聞いていなかったなぁと、気づいたのだ。別段参考になりそうな意見は聞けそうになかったが、まぁ気分転換にはいいだろう。このまま思考を続けているとほんとうにゲイになってしまいそうで、少し怖かったこともある。


「恋ですか?」

楠原は頭のてっぺんにいつも生えているアホ毛をぴこぴこと動かしながら首をかしげた。

「そういえば、布施さんは恋とかしたことないんでしたっけ」
「まぁ」
「そうですねぇ、僕はもうずいぶん、そういうのないですけど」
「幽霊なのに」
「幽霊だからです」

布施は楠原がほんとうに幽霊だとまるっと信じたわけではなかった。けれどなんだか人間じみてはいないので、なんとなくいつも「幽霊なのに」と楠原をからかう。楠原は別に気にしたふうでもなく、またぴるぴるとアホ毛を動かした。本人は幽霊らしいのに、アホ毛は生きているみたいだ。

「その人にもう一度会うためならなんでもします、って気持ちですかねー」
「たとえば幽霊になるとか」
「そう、幽霊になるとか」
「なるほど」
「まぁ、冗談なんですけど」
「冗談かよ」
「だって、なんでもしたところでその人が喜ぶって決まってるわけじゃないですか」

なんだか楠原の瞳に一瞬影がさしたようになった。幽霊には幽霊なりの事情があるらしい。布施は別の話題にしようかと思ったが、布施がそれを振るより早く、楠原が言葉をつなげてしまう。

「でも、喜ぶ顔が見たいっていうのも、違うんですよね。なんでしょう、うん、他の人にはできることが、その人にはできないとか、そういう気持ちですかね。なんだか、形容しがたいですけど、恋って、そんなものじゃないですか?」
「そんなもんか」
「そんなもんです」

布施はなんだか今までの言葉の中でそれが一番、すとんと落ちてきた。布施は多分誰だって抱けてしまう。だから、これから先に「ああ、この人は抱けないな」と思ったら、それはきっと恋のような形容しがたい感情を抱いているということなのかもしれない。それが恋と確定するわけではないのかもしれないが、そのひとはきっと、布施が今まで持つことのなかった「特別」な感情を抱くひとには違いない。


「あ、そういえば」
 布施が少し考えている間に、楠原は唐突に何か思い出したらしい。
「今度、新しい入居者さんがここにきますよ」
「え、まだ部屋空いてたのか」
「ええ、あと二部屋空いてたんです」
「へぇ」
「興味なさそうですね」
「まぁ、あんまり」

布施はまぁまたどうせ変わった人が来るのだろうなぁと思った。この家に住んでいる人にまともな人はまずいなかったからだ。みんなどこかしら欠けていたり、おかしかったり、狂ったりしている。この家がそう仕向けているのではないかと思うほど、そうだった。

「五島さんて方です」
「…一応聞くけど、どんなやつ?」
「うーん、形容しがたい人です。僕、前からあの人が何考えてるのかよくわからなくて…。でも悪い人ではないです」
「ふーん」

布施は「その人はどこが悪いの?」と聞こうとして、やめた。良心がとがめたからだ。けれど、楠原はとくに隠すことでもないですから、と前置きをして「耳の聞こえない人です」と言った。布施はいつかそうしたように、「耳の聞こえない人」と口のなかでつぶやいだ。


五島が入居したのは、それからすこしたってからだった。それでもカレンダーはまだ三月の半ばで、大学生の引越しにしても、新社会人の引越しにしても、充分に早い。

五島がこの家に来た日は、三月にしたら暖かかった。最近まで雪の残っていたアスファルトもからりと渇くような陽気だ。けれど五島はそんな暖かな日に似合わず、凍えたような顔をして、この家にやってきたのだ。その日のことを、布施は今でもなんとなく覚えている。


はじめて布施が五島に会ったとき、布施はとりあえず「はじめまして」と言った。けれど、すぐに「ああ、聞こえないんだった」と思い出す。紙とペンでもあればよかったのだけれど、あいにくそのときは持っていなかった。手話ももちろん、できない。けれど五島は唇の動きでわかったらしく、うっすらと笑った。たった、それだけだったのに。

布施は「あ」と思った。思ってしまった。多分、この人は、抱けない、と。


End

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