Chapter 5 : five years ago 8.17






磨り減っていた。


何が、とは言えない。秋山はとにかく自分の、形容しがたいなにかが確実に磨り減っているのを感じた。それはジーンズの膝の部分や裾が擦れてほつれてしまうのとはずっと違う減り方をしている。そこに何かがあったという痕跡も残さずに、いつの間にか、気づいたときには無くなっているような、減り方をしていた。毎日がどうしようもなく億劫で、憂鬱で、白黒だった。倦んでいるような気もする。あの、傷口が少し倦んでしまっているときの獣臭さがたしかに鼻の奥にこびりついていたのだった。ただただすり減らしていく毎日が訪れては去り、訪れては去っていく。ただひたすらに、モノクロの面持ちをして。


秋山はそれなりにいい値段のするマンションに住んでいた。一年前に書いた小説がベストセラーになり、大きな賞もとった。語弊があるかもしれない。おおきな賞をとったことが助けて、ベストセラーになった。そのおかげで秋山は当時十九歳という若さにしてそれなりの額のお金を手にすることができた。年が随分上の友人の勧められ、親の名義でマンションを買い、この先なにかあったとしてもとにかく住む場所だけはなくならないように確保した。別にこのマンションが気に入ったというわけではなかった。いつか結婚したときに家族で住むには少し手狭だったし、秋山はそれほど高いところが好きなわけでもない。内装にしたってよそよそしすぎて、住んで半年以上経つ今になっても、どこかホテルで暮らしているような気分になる。しかしひとりで住むには充分な広さのある部屋で、何か文句があるかというと、特になかった。都会的で、スタイリッシュで、どこか生活の匂いのしない部屋。その部屋で、秋山はだいたい毎日、文章を書いている。食いっぱぐれない程度の稼ぎはあったが、一年もして話題がすぎると、秋山はどこにでもいる一発屋を見るような視線を感じるようになった。

二十歳を過ぎれば、大抵の人がただの人になる。秋山も例に漏れずそうだった。秋山はもうあまり面白い小説はかけそうになかった。未成年の頃の情熱や、青臭い理想や、訴えかけたいことが燃やす炎は、いつのまにかぱちぱちとほの赤くかすかに輝くのみとなっている。二冊目の小説の売れ行きはあまりよくなかった。それなりといえばそれなりに売れたのだけれど、デビュー作と比べてしまうと悲惨に思える程度しか、売れなかった。それでも堅実に仕事をしていたおかげか、現在はコラムの仕事をもらったり、小さな雑誌で小さな連載を書いていたりでどうにか仕事をつないでいた。

誰かに言われずとも、秋山が一番わかっている。秋山の小説には、とにかく色がない。デビュー作は色の見えない少年の世界を描いた、ほとんど自分が主人公の物語だった。だから、賞がとれたし、今までにない世界の描き方をしていたと評価されたのだ。けれど、そこから先は、用意されていなかった。それこそ真っ暗な闇を手探りで進んでいくことしか、できないのだ。


秋山の世界には色がない。


どうしてそうなのか、いつからそうなのかわからない程度には秋山にとってモノクロの世界というものは日常だった。まるで昆虫のような視界をしている、と秋山は自分を揶揄することがある。保育園や小学校の図工の時間には、クレヨンやクレパスに書いてある文字で色を判断していた。もとの色はとにかく本や誰かの会話から盗んで、色をつけていた。不自然なことのないように、秋山は生きてきた。これからも、そうするつもりだ。それがいつまで続くのかは、わからなかったけれど。


もうすぐ、茹だるような夏がこようとしていた。そういえば、秋山のデビュー作は真夏に出版された。空が濁るほどに蒸し暑い、夏の日だった。今朝の空もそんなふうに澱んでいて、だから秋山はなんとなく本棚からその小説を引き出した。作品の内容と同じく、表紙は真っ白で、そこに少し薄めの墨でタイトルが書いてある。とある書道家に書いてもらった文字だ。その書道家というのは弁財酉次郎という現在は秋山と交流の深い書道家で、このマンションの二階に住んでいる。彼とはとにかく奇妙な縁があった。

秋山がはじめて弁財に出会ったのはこの小説の表紙の打ち合わせのときだ。そのときの弁財はひっそりと物静かな雰囲気をたたえていて、とくにこれといった主張のない人だった。しかし一度口を開くと「ああ、頑固で怒りっぽいのだろうな」と秋山は思った。すっと昔からの友人のように、秋山には弁財のことが手に取るようにわかり、逆もまたしかりのようで、二人は少し視線を交わして、苦笑した。

秋山は弁財に会うより先に弁財の作品をいくつか見ていた。どちらかというと現代的な書道家で、賞に出品するだけでなく、酒や食品のラベルに文字を入れる仕事もしていた。秋山の好きな焼酎のラベルも弁財が書いていて、その字がとても印象深かった。なんだか擦り切れているな、と秋山は思ったのだ。文字が疲れている。本人が疲れた状態でこれを書いたとか、字に勢いがないだとか、そういうわけではない。ただ、秋山と同じように磨り減っているなぁと、思った。弁財もきっと秋山と同じような場所にいるのかもしれない。秋山は、弁財に会う前から少なからず失礼かもしれない親近感を抱いていた。

弁財は表紙を書くという仕事のために一度秋山の小説に目を通してくれていたらしかった。この言い方では語弊があるかもしれない。弁財はしっかりと秋山の小説を読み込んできてくれていた。そうして「とても印象深いお話でした」と一言感想を述べた。秋山ははじめ、若さも助けてか「なんだ、流し読みしただけか」と思ったのだが、そののちに弁財が書き上げた作品があんまりにも作品を表していたために、認識を改めた。文字の配置や線のかすれ、とめやはねに至るまで、これは作品をきちんと理解してくれていないと書けないだろうという出来のものをよこされたのだ。それを見て、秋山はすごいと思う前に怖くなった。なんだか自分の心を見透かされているような気がして、自分の欠けているところをじっと見つめられてしまった気がして、こわかった。それから、どうして、ひどく、安心した。


秋山は見慣れたインターホンを一回、鳴らした。返事はない。どうしたものかなぁと少し考えてから、仕方が無くそのままドアを開ける。鍵はかかっていなかった。無用心だから家にいるときもきちんと施錠しろと言い聞かせているのに、弁財はなかなかに面倒がってそれをしない。このマンションのセキュリティはわりとしっかりしているし、警備会社とも契約してあるらしかったのでそこまで用心する必要はないかもしれないが、習慣にしておいて損はないはずだ。秋山はなにかと弁財の世話を焼いている。弁財は仕事に関してはかなり真面目にこなしているのだけれど、自分のことや私生活となるとほんとうに無頓着でどうしようもなく投げやりだ。同じマンションに住んでいることが判明してから、二人はちょくちょく顔を合わせるようになり、秋山はちょくちょく弁財のことを気にかけるようになった。弁財もそうだ。弁財といえば業界では人嫌いとして有名だった。仕事以外では人と顔を合わせようとしないし、賞をとったときの祝賀会も開きたがらない。弁財はどこかの広告代理店と契約して仕事をもらっているらしかったが、その担当が弁財の部屋に来たことはまずないだろう。

「弁財、いるんだろう?」

秋山が呼びかけると、リビングのソファで何かがもぞりと動く気配がした。どうやらソファで力尽きていたらしい。かろうじて毛布を引っ掛けて、仕事明けらしく静かに眠っていた。一応今日会う約束はしていたのだが、と秋山はため息をついた。

ソファで眠る弁財の顔はまた少し肉が削げていた。磨り減っているなぁと、秋山は思った。弁財は磨り減っている。秋山とはまたちがう、目に見える形で弁財がなくなっていくのだ。弁財はべつに仕事がうまくいってないだとか、人間関係がうまくいっていないだとか、そういうことは、ない。ただ小さな頃から、ずっと、うまく食事が食べられないということだった。食べられる時期もあれば、食べられない時期もある。それはちょうど月の満ち欠けのようにして弁財に訪れるらしい。どこかが欠けている。それが二人の共通点だった。


昼過ぎになって目を覚ました弁財は、とりあえず「すまない!」と秋山にあやまってきた。秋山は弁財の部屋で勝手にコーヒーをいれ、勝手にくつろいでいたので特に怒ってはいなかったのだけれど。

「仕事の締切が今朝で、徹夜だったから仮眠のつもりで横になっていたんだが、思いがけず眠ってしまっていて・・・」
「いや、べつに気にしなくていいよ。今日は俺の買い物に付き合ってもらうだけだし」
「いや、それでも申し訳ない」
「いいよ、もう。それより、お昼ご飯は外で食べようか。何か、美味しいもの、食べよう」

秋山のどこか気遣うような提案に、弁財は自分の少し尖った顎を撫でて、「申し訳ないな」と、もう一度謝った。だから秋山も、もう一度、「いいよ、別に」と言った。合言葉のように。


秋山と弁財は適当に美味しそうなお店で食事をした。弁財はゆっくりと箸をうごかして、食べられそうなぶんだけを少しずつお腹におさめていた。どうやら今は少し回復して食べられる時期に入っているらしい。秋山はとくに構うことはせずに「彩野菜の冷やし坦々麺」と書かれた商品を咀嚼した。どこらへんが彩なのか、よくわからなかったけれど。

秋山が弁財を買い物に誘ったのは、服を買うためだった。秋山はどうしても白黒でしか色を判断できないので、こういうとき弁財に手伝ってもらうことにしている。弁財は秋山の目のことを知る唯一の人物だったし、逆もまたしかりだった。うまいこと補い合っているような気はする。けれど、どうにもまだしっくりとこない。お互いにお互いがいないといけないということはわかっていたけれど、ほんとうにこのかたちで合っているのか、自信はなかった。どこか違うような気がしてならない。まだ足りないだとか、もっとこうしてほしいだとか、そういうことではない。ただ、なんだか落ち着かない雰囲気が、二人の間には横たわっていたのだ。それは手の繋ぎ方がしっくりこないというわけではなく、手を繋いで歩いている場所がそぐわないという、そんな違和感だった。


秋山は服を選んでみては弁財に色はおかしくないかと首をかしげてみせたし、弁財はそのたびに「すこし派手かもしれない」だとか「ちょうどいいんじゃないか」だとか律儀に返事を返した。昼過ぎから買い物を始めてしまったので、二人がそこらのスターバックスに腰を落ち着けたときには、もう夕方だった。二人が座ったのは二階のカウンター席で、そこからはスクランブル交差点が見下ろせる。ちょうど信号が青になり、誰しもが自分の行くべき場所へ、帰るべき場所へと足を動かしていた。それはいっそ大きな生き物のようにうごめいている。

「ぼくが目になろう」

弁財が秋山と同じことを思ったのか、小学校の教科書にのっていたとある物語の中の一文をふざけて呟いた。秋山は「スイミー?」と聞き返す。弁財が「ああ」と答えた。「お前には簡単だったな」と。

「・・・たまに、思うんだ。お前の目に、あの教科書のイラストはどううつっていたんだろうなぁって」

弁財が急に真面目そうな顔になってコーヒーをすするものだから、なんだかセンチメンタルな気持ちになっていけなかった。スターバックスにいるのに、ふたりとも飲んでいるのは暑苦しいブレンドコーヒーだった。

赤い魚の群れの中に暮らす一匹だけ黒い魚の話を、秋山はもうよく覚えていない。たしかその黒い魚の名前がスイミーで、スイミーのいた群れはみんな兄弟だった。スイミーは泳ぎが早く、かしこかった。ある日、その群れが大きな魚に襲われて、スイミー以外の兄弟はみんな食べられてしまった。スイミーはひとりで海の中を冒険し、ある日、兄弟たちとそっくりな赤い魚の群れを見つける。その赤い魚たちは大きな魚に怯え、隠れながら自由に泳ぐことなくひっそりと暮らしていた。そこでスイミーがみんなで固まって、大きな魚のように泳ぐことを提案する。そうして、「ぼくが目になろう」と言うのだ。その後その群れは大きな魚を追い払い、みんなで自由に、かたまって、おおきな魚のふりをして海の中を泳ぐ。めでたしめでたし、という話だ。

秋山はその話をなんとなく思い出してから、「スイミーは自分の居場所を見つけられたんだろうな」と言った。弁財は「そうか、どうなんだろう」と首をかしげた。

「家族は、もうどこにもいないんだろう。帰る場所は、ないんだろうな」
「・・・家族がいる場所だけが帰る場所でもないんじゃないか」

秋山がそう答えると、弁財は少し考えてから、頷いた。

「・・・そうか、そうだな」

弁財が頷くと、首のあたりにぽっこりと骨のかたちが見える。そのあたりの肉が薄いかららしい。秋山はいつか、弁財のその首のぽっこりがすこしでもふっくらになることをおもっていた。それと同じくらいの重さで、弁財は秋山が「空が青い」と呟く日を夢見ていた。お互いに、そうだった。けれど、ベクトルはどこまでも相手にばかり向いてしまっている。

「なんだか真面目な話になった。小学生用の教材も馬鹿にできない」
「作者の名前もな。小学生は大抵あの名前でなんかよくわからないけど笑うから」
「今となっちゃなんであんなに笑えるのか、わからないけどな」
「うん」

カップの中のコーヒーはまだまだなくなりそうになかった。弁財はじっと、信号の変わった交差点を見下ろしている。

「そうだ、質問に答えてなかった」
「ん?」

秋山が思い出したように言うと、弁財は視線を秋山に戻した。

「イラストは、白黒だったけれどスイミーはちゃんと『目』に見えた。そこだけ、真っ黒だったから」
「そうか」
「うん」

弁財は少しほっとしたように、コーヒーを飲んだ。コーヒーなら、弁財の部屋でも、秋山の部屋でも、帰ってから落ち着いて飲めばよかったかもしれない。けれど、どうにも「帰る」という表現がしっくりこないのが、あのマンションだった。どうやら秋山も弁財もどこか新しい群れを探してまだ海の中を泳ぎ回っているらしい。

「秋山」
「なに?」
「どこか遠くに行きたいな」
「・・・うん」

秋山はすんなり頷いた。秋山も、弁財と同じことを考えていたのだ。


どこか遠く、といっても、秋山も弁財もとくに行きたい場所があるわけではなかった。少し自慢になってしまうかもしれないが、秋山も弁財も、お金には余裕があった。なんなら海外へも行けてしまう。かといって海外へ行きたいかというと、そうでもなかった。ただぶらぶらと歩ける範囲でいいかな、と秋山は思ったので、多分弁財もそうだった。買ったものもそんなに量が多くなかったので、秋山は「遠回りして、帰ろう」と提案した。弁財もそうだな、と頷いた。


「そういえば、弁財って、いつから東京に住んでるの」

 いつもとは違う電車をつかったあとに、二人でてくてくと当て所なく歩いていた。秋山は小説家になると決まってから、東京に上京してきた。つまり、十九歳のときから、大体一年、東京に住んでいる。はじめは慣れなかった電車の乗り換えや改札も、今では特に何も考えずにパスすることができる。

「高校を卒業してから、書道家になって、どうにか自分で稼げる契約がとれてからだから、だいたい一年前か」
「俺と同じくらいなんだな」
「ああ。改札とか乗り換えとかがな、はじめはまずわからなかった」
「俺も」
「うん。今はなんだか、簡単にできてしまうことが、はじめは真新しく、新鮮で、毎日全力だった気がする」

歩いていると、昔のことを思い出す。といっても、今二人が思い出しているのは、たった一年前のことだった。たったそれだけの、瞬きひとつで思い出してしまえる「昔」だけれど、一年前はまだ、こんなに磨り減ってはいなかったように思える。

「多分、俺の仕事は実家でもできた」

弁財はつま先を見つめながら、そう言った。

「俺もかな。今は、ファックスとか、ネットとか、色々あるから。別に小説家も東京に住まなきゃ立ち行かないってことは、ないと思う」
「そうなのか。うん、なんだか、実家にいても、なんだか、違う気がしたんだ。どこか、違う場所に行きたいと思った」
「うん」
「どこでもよかった。ただ、東京が、都合がよかった」
「うん」
「あのマンションも」
「うん」
「そんなものか」
「そんなもんだね」

どこがいいとか、どこじゃなきゃいけないとか、そういうものが、二人にはなかった。どこでもよくて、どこでもいい中から、都合のいい場所を選び取った。そうして自分のかたちを少し変えて、慣れて、今この道を歩いている。

降りる駅までは適当だった。マンションの方向にあって、しかし、あまり使わない駅。けれど、そこからはなんだか隘路を歩きたい気分だったので、二人して通ったこともない道をてくてくと歩いていた。

東京にしては、なんだか田舎の匂いがした。緑が多くて、近くを川が流れている。水のちゃぷちゃぷという音が隘路にまで染み込んでくるようだった。道はわからなかったけれど、疲れてきたら大きな通りを目指せばなんとかなるだろう。
秋山も弁財も、磨り減っていた。欠けたところを補うでもなく、諦めて、このままでもまぁいいかと思っていた。そうして、そのまま、ほつれたままにしたところが、だんだんと、二人を削っていってしまっていた。おんなじ匂いがする。秋山は弁財といると落ち着いたし、弁財は秋山といると、落ち着いた。けれどこのままではダメなんだろうなぁということも、わかっていた。二人だけでは、多分、お互いのことを見つめて、寄り添って、言葉を交わして、気を紛らわすことしか、できない。新しい群れを見つけなければ、いけなかった。スイミーのように、帰るべき自分の場所を。


「だんだん暗くなってきたな」

弁財が何気なく呟いたのが、終わりの合図だった。もう夜が背中に張り付こうとしている。

「うん?ああ、そろそろ大通り探さないと・・・」
「川に出てみたらいいんじゃないか」
「あ、そうだな」

ちゃぷちゃぷという音は、静かに響いていた。このあたりは人も少ない。隘路を通ってきたせいか、秋山も弁財もあまり人とすれ違った記憶がなかった。少し考えればおかしいのだけれど、別段気にするようなことでもない気がしていけない。とにかく、秋山と弁財は変わらない速度で、川の方を目指した。

川は細い道を一本挟んだ向こう側にあったので、とくに苦労はしなかった。河川敷には背の高い草が生い茂り、散歩コース向きではなかった。ただ、自然がそこにある。河川敷沿いの道には大きな柳の木が何本も立ち並んでいて、二人はその下を通るたびに腰を折り曲げないといけなかった。そうしないと、葉っぱが顔をかすめてくすぐったいのだ。なんだか東京ではないみたいだった。秋山は、住むならこういう場所がよかったかもしれない、と思った。

「住むならこういう場所がよかったかもしれない」

そう口にしたのは弁財だった。秋山は少し驚いて、「俺も今そう思ってた」と笑った。

人ごみのあたりはずっと蒸し暑かったのに、このあたりは随分涼しかった。音も静かで、ここで執筆をしたらさぞ捗るだろうと秋山は思う。そのとき、柳の枯れた葉が一枚、するすると枝を離れた。

「あ、魚」
「え」

その葉はまるですいすいと泳ぐ魚のように、見えた。ぴらぴらと風に流されるその姿が、尾びれをいっぱいに動かしている魚にそっくりだったのだ。そしてその魚は、すいすいと空中をしばらく漂ってから、するりと川に沈んだ。まるで川に帰ったかのように。

しばし、秋山も弁財もその水面をじっとみつめていた。そうしてから、無性に帰りたくなった。あのマンションではない。ただ、「おかえりなさい」と誰かが言ってくれるような場所に、帰りたくなった。どうしようもなく、疲れていたのだ。ずっとこのまま自分をすり減らして生きていくのはとても億劫だった。とにかく、磨り減っていたのだ。けれど、二人には帰る場所がなかった。こんなに疲れているのに、帰るべき場所がない。それはなんだかとても悲しいことのように思えた。

「・・・疲れたな」

 秋山がそう言うと、弁財も小さく頷いた。

「疲れた」

会話はそれぎり途切れて、二人は立ち尽くしてしまった。


「お困りですか」


背後からの声に、秋山と弁財は驚いて振り返った。そこには白いシャツにジーンズ姿の青年が立っていた。手ぶらなところを見ると、どうやらこのへんに住んでいるらしい。青年はアシンメトリーな髪型をしていて、妙に人懐っこいくりくりとした目をしていた。どこかであったことがあるような、ないような、そんな気がする。

「いえ、そういうわけでは」

秋山がとっさにそう言うと、青年は首をかしげた。

「そうですか?なんだか、お疲れのようでしたので。えっと、あとですね、このへんにお住まいですか?」

青年の質問に、秋山も弁財も「このへん」が「どのへん」かわからなかったので、とりあえず首を振った。すると青年はニコリと笑って、空を見上げて見せた。

「そうですか。それはいけないです。そろそろ雨が降りそうなんです。なんだか、雨の匂いがするんです」
「はぁ」
「しませんか?たぶん、あと五分くらいで降り出しますよ」

普通ならば「胡散臭いなぁ」と思うところなのだが、どうにも青年のどこか純朴そうで、お人好しに足を生やしたような雰囲気が、そうは思わせてくれなかった。秋山も弁財も、全部を全部信じたわけではなかったけれど、少し雲行きの怪しくなった空を見上げて、

「たしかに降りそうだな」と。
「それから、このへん、この時間帯はちょっとあぶないんです。だから、雨宿りがてら、少し家で休んでいきませんか」
「えっと…」
 
秋山は困った顔になり、弁財を見た。

「大したおもてなしはできないですけど、いつも誰か帰ってきたときのために気合いいれて掃除してるので綺麗といえば綺麗ですよ」
「けど」

弁財もどうしたものか、という面持ちで秋山を見る。

「あ、降ってきました」

鼻先をかすめた冷たい雨粒に、秋山と弁財は諦めたような顔になる。どうやら青年の天気予報はぴったりとあたってしまったらしい。秋山と弁財は腹をくくり、ええいままよと青年の手をとった。

青年にはどうして、有無を言わせぬ力強さがあった。普通見ず知らずの人にこんな話を持ちかけるだろうか。なにか怪しげなことを考えているのかもしれない。二人共そうは思いつつも、どちらも断れない日本人だったので、青年に手を引かれるまま、先ほどまで二人が歩いていた隘路に戻ってきてしまった。

そこには先ほどまでこんな家があったろうか、と二人が首を傾げるような立派な家があった。古びた日本家屋で、昔ながらの面構えをしている。屋根は瓦で、それなりに広い庭もあった。庭にはまだ固い蕾だけをつけている朝顔が植えられていて、雑草は目立たない。青年の言っていたとおり、手入れはきちんとしているようだった。

そして、その家を見たときに、秋山と弁財は顔を見合わせた。知らない場所なのに、どこか懐かしい匂いがしたからだ。黒い魚が赤い魚を見つけたような気持ちだった。ああ、ここなんだな、と思ったとき、二人の手を引きながら前をあるいていた青年は、くるりと振り返り、にこりと笑った。


「おかえりなさい」



End



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