シニフィエ・シニフィアン






明け方のまだ日も出ていないあたりに、五島はとろりと甘いカフェオレを片手に窓の外を眺めていた。白いマグカップは充分な深さがあって、朝食前の胃をゆったりと温めた。外は雨が降っている。雨の音に目が覚めたのだ。悪くない目覚めだと思った。青みを帯びた空気がしっとりと静かに部屋を濡らしている。窓の隙間からさぁさぁと音がしていた。瞼を閉じるとその内側もひっそりと濡らしてくれるような音だ。目が覚めるほど騒がしいのに、静かな朝だと思った。

「ゴッティー?今日早番だっけ?」

五島は「僕のスペースに入るときはノックしてって何回も言ってるよね」という台詞を飲み込んで「違うけど、目が覚めた」と言った。日高も雨音に目が覚めたのかと思いきや、彼は遅番だった。丁度今帰って来たところらしい。これから眠るのだろう。大きなあくびをした。うっすらと汗のにおいがする。身体を動かした汗というよりは疲れからくる粘ついた汗のにおいだ。そろそろいろいろと気を付けたほうがいいのではないか。

「俺ただいまとか言ってねーけど」
「いや日高がうるさくて起きたとかじゃないから大丈夫」
「あっそ。ならいいけど」

日高はもう一つ欠伸をした。さぁさぁと雨が降っている。

「濡れなかった?」
「…下ネタ?」
「日高気持ち悪い。雨、降ってるから」
「ん?ああ、…あー…大丈夫だった」
「そう」

こうしている間にも、なんだかくすぐったいような、苦しいような探り合いがある。言葉がそれだけの意味ではなくて、何かにくるまれて、知らん顔をして、部屋に降り積もっていく。静かなのに、騒がしかった。部屋の中にいるのに雨のようだと、五島は思った。窓の外の雨は徐々に雨足を緩めている。五島が出勤するあたりには多分止んでしまうだろう。塗れたアスファルトのむっとするようなにおいを思い出し、五島は唇を緩めた。

「雨、やまないね」
「…そうだな。俺ねるからいいけど」
「そう」
「そう」

きっと日高は今日がなんの日なのかわからないのだろうなぁと、五島は溜息をついた。溜息をついてから、それをすうっと吸い込んで、「夜までに晴れればいいけど」と言った。日高は首をかしげて、「なんで?」と聞いた。いまどきの若者はこれだからいけない、と五島は日高よりも年下のくせにちょっと小馬鹿にした視線を向けた。

「今日、十五夜」
「え?それって十月じゃないの?十月十五日」
「これだから日高は」
「うるせーばーか」
「そう、だからね、雨が夜まで降ってたらきっと残念だよ」
「ゴッティーってそういうの好きだっけ?」
「別に」

五島が会話をぐしゃっとしてぽいっと捨ててしまったところに、さぁさぁと雨の音が響いた。窓を叩く雨の音が、すこしだけさびしくて、すこしだけ眠たい。

「あ、そういえばさ、ゴッティー」
「なに?」
「雨が降ったあとの空は、きれいなんだって」
「日高そういうの詳しかったっけ」
「いや聞いた話。大気中の埃とか塵とかが雨に流されて、したに落ちて、空はすっきり晴れるんだってさ。だからもしも今日雨が晴れたら、きっと月が綺麗なんだろうなぁ」

五島は一拍おいてから、ひっそりと笑ってみせた。

「なにそれ、ロマンチック。似合わない」
「お前の口からロマンチックなんて言葉が出てくるのも似合わないけどな」

さぁさぁと雨が降っていた。日高はもう寝るから、おやすみ、とだけことりと置いて、ベッドルームに消えていった。もうすこしすると鼾と寝言の不協和音がしてくるだろう。五島はすっかり冷えたカフェオレを一口飲んでから、ちょっとだけ、ひどい気分になった。雨なんて晴れなければいい。きっと今日は月は見えない。


END


まさなさんへ。
リクエストありがとうございました。

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