のみこめない劣等感
日高に前髪を切られた。
秋山は嫌だと言ったのに、日高が「なんだか鬱陶しいじゃないですか」とどうせ漢字では書けないような台詞を吐きながら無理矢理に切ってしまったのだ。少しだけ短くなった前髪が、右目を隠しきれていない程度に。そのとき日高は「へぇ」と少し関心するような顔になって、それがなんだか恥ずかしかくて、秋山は日高を殴って逃げたして自分の部屋に引きこもった。見られたくない自分のどこか恥ずかしい部分を覗かれた気持ちだった。それからなんだか切られた前髪の破片がどこからか口の中に入り込んでしまって、ずっとひっかかっているような、そんな気がした。
次の日秋山が「こんな前髪で仕事に行きたくない」とだだをこねると、弁財が呆れた顔で「馬鹿言ってないではやく支度しろ」と無慈悲に秋山を布団から引きずり出した。短くなった前髪はどんなにアイロンでのばしても、ワックスで撫で付けても顔の半分を隠してはくれなくて、辛かった。秋山はあんまり自分の顔が好きじゃない。まずもって一重瞼で目つきが悪く、ぱっとしない地味な顔立ちで控えめと言えば響きはいいけれどとにかく主張がない。そんな自分のコンプレックスをどうにか覆い隠してくれる前髪は秋山の必須アイテムで唯一のチャームポイントだったのに、これではあんまりだ。透明人間なのではないかというほど主張のなくなった自分の顔と、やたら目つきだけは悪いそのあたりに、喉の違和感が増した気がしていけない。ぎりぎりまで前髪と格闘していたら「遅れるぞ馬鹿」と目元をつりあげた弁財に尻を叩かれた。もう消えてしまいたい。
職場に秋山が顔を出すと、まず道明寺に前髪をいじられまくり、加茂に「そっちの方がずっとすっきりしていていいぞ」と慰められ、淡島に「あら、随分すっきりしたわね」と苦笑いをされた。後半二つはだいたい被害妄想なのだが、秋山にとってはとても辛い一日の幕開けだった。秋山は目つきが悪いことをとても気にしている。とにかくこのつり目が自分で鏡を見たときにとても怖いのだ。だから不機嫌丸出しの伏見に書類を提出した際「なに睨んでんだよ」と睨まれたときにもう涙がこみ上げるのを禁じ得なかった。前髪を切る前にも何度かそういう理不尽な仕打ちは受けていたけれど、秋山の脳みそはわりと秋山に都合のいいようにできているのでそんなことはさておき全ては日高のせいだちくしょう覚えてろこの声だけ野郎と書類を握り締めた。せっかく作成した報告書がぐちゃぐちゃになってしまったのもすべて日高のせいなのだ。あんな幸せ間抜け面をした顔のいい男には秋山の気持ちなんて微塵もわからない。顔に自信があるからあんなに短い前髪でいられるのだ。喉にひっかかっている髪の毛はまだ飲み込めないし、吐き出せもしない。
「秋山さん」
「…」
「あきやまさあん」
「…」
「あーきーやーまーさーん」
ああ神様この声だけでなく顔も性格もとにかくイケメンに分類される男をどうにかしてこの世界から葬り去ってくださいと考えながらやっと秋山が日高の方を振り向くと、日高は「そんなにおこんないでくださいよ」と憎たらしい顔をした。秋山は短くなった前髪のおかげで久々に日高の顔をまじまじとふたつの眼でみたのだけれど、どこからどう見ても男前だった。切なくなる。
「そんな前髪のこと気にしてるんですか」
「…まぁ、それなりに、落ち着かないからな」
悲しいことに秋山は本当に言いたいことはぐっと飲み込んでどうにか表面を取り繕ってしまうような波風立たない性格をしていた。こんな前髪だなんて成人男性からしてみれば小さなことでいつまでもいつまでもいじけているとは思われたくない。そうやって飲み込んできた言葉の数々で秋山はできている。そうやって吐き出してきた言葉の数々が秋山の表層に出ているのだ。だから秋山の見た目はほんとうに波風が立たないようにできている。人生というものは山もあり谷もあるけれどそれを吹雪の中で歩くのとなだらかな春の日差しの中で歩くのとではまったく違うのだ。日高のように大きな体があれば吹雪だろうと大雨だろうとおかまいなしにダッシュで突っ切れてしまうのだろうけれど、秋山はもうそんなに若くないし、若かったとしてもそんなに元気はなかった。日高のような人間には秋山のような人間の気持ちなぞ一生わからない。
「昨日は驚いて殴ってしまって悪かったな。あんまり、乱暴だったものだから」
「ああ、ぜんぜんいいですよ。ていうか驚きました、逆に。思ってたより普通だったんで」
「なに?」
「いや、だって秋山さん執拗に右目隠してるんで、オッドアイなのかなーとか、傷跡でもあんのかなーとか、ほんとに右目見えてんのかなーとか思ってて」
「…つまらない結末で申し訳なかったな。なんだ、そんなくだらないことで俺の前髪をつけねらっていたのか」
「いや、まあ、普通に鬱陶しかったのが一番なんですが。やっぱりそっちの方がいいですよ。すっきりしてますし。秋山さん綺麗な顔してるので」
「…」
「秋山さん?」
「…いいから、さっさと仕事に戻れ。まだ勤務時間中だろう」
「へーい」
日高は褒めたらなにか出るかとでも考えていたのだろうか。普段と変わらない様子の秋山にあしらわれてなんだつまらないと全身からにじませながら自分の席へともどっていった。秋山はこれだから日高は苦手なのだとため息をつく。
秋山と日高がもしも高校生だったら、二人は三年間同じクラスにいたとしても多分一度も口をきかないまま学校生活を終えてしまうだろう。きっと日高は高校のクラスで一番大きな声で笑っていただろうグループに所属していて、それは陰湿なイジメとか差別とかではなく、ただ心から学校生活を幸せなものだと考えて、毎日を楽しく充実させながら過ごしているグループだ。対して秋山は実際の高校生活でも、もう一度高校生活を営めるとしても、多分教室の隅の方で気心のしれた友人とひそひそとふたりにだけわかる会話を楽しんでしまう。ただなるだけエネルギーを使わないように、毎日にくたびれてしまわないようにするだけで精一杯なのだ。多分、比喩的でなく日高と秋山の生きている世界は違うのだと、秋山は思う。喉の違和感はとれないし、なんだか疲れてしまった。さっきの例え話に置き換えるなら、日高は秋山と友人がひそひそと二人だけの言葉を交わしているときに突然割って入ってきて、「今日からこっちのグループに入って一緒に遊ぼう」と無理矢理秋山を引っ張っていってしまったようなものなのだ。そういうのはほんとうに、やめてほしい。秋山は台風の中で生きていけるような人間ではないし、日高は秋山だけ手に入れたらそれで満足してしまうほど欲のない人間ではないとわかっていた。とにかく相性が悪い。日高だってわかっているはずなのに。
秋山は仕事が終わるといつもの倍は疲れた身体を引きずって帰宅した。そうして、とにかく嫌な汗をかいてしまっていたので顔だけでもさっぱりさせようと洗面台で顔を洗った。そうして、水に濡れた顔をじっと鏡で見つめてみると、やはり冴えない男の顔しか、鏡には写ってくれなかった。昨日の髪の毛はまだ喉にひっかかっている。
END
翠さんへ
リクエストありがとうございました!