だいじなことを言葉になんてしてあげない





「あれ、ペンキなくなっちゃったー」

渚の困ったような声で、プールの修理作業は一時中断されてしまった。どうやらフェンスを塗るための緑のペンキが作業半ばにしてなくなってしまったらしい。見立てでは買ったぶんだけで足りるはずだったのに、素人が多めに塗りたくってしまったせいで消費が進んでしまっていたようだ。真琴はどうしたものかなぁと考えて、「先生、申し訳ないんですけど、もう一回車出してもらえますか」と、プールサイドで日傘をさしていた天方の方をみる。

「え?ええ、かまわないけど・・・」
「ありがとうございます。ペンキが足りなくて」
「あら、そうなの。なら仕方ないわね」

じゃあ、買いにいこう、と渚が張り切ったようにまくりあげていた袖を直したけれど、「あ、」と真琴が思いついたような声を出す。

「みんなで買いにいく必要って、あるかな」
「あ、たしかに」
「うん、ペンキがなくても作業できるとこ、まだ残ってるよね」

真琴の提案に、渚はまだ補修の完了していないプールを見渡して、「役割分担した方が効率的かも」と。遙は無言だったけれど、わざわざホームセンターにいくのは面倒だと思っているらしかった。真琴はそれに苦笑して、「俺と先生で買いに行くから、渚とハルは補修進めててもらっていい?差し入れもなんか買ってくるし」と。渚はべつに異存はないらしく「そうだね。おねがい」とまた袖をまくりあげた。普段は一年だとか二年だとかそういう細かいところに囚われていないくせに、部長や副部長を決めるときやこういうときにはちゃんとそういうことを考えている。真琴はたしかにこういうのは二年が行くべきだろうなぁとたしかめてから、遙を見た。遙は「べつに補修がはやく終わるならそれでいい」という顔をしている。けれど、ちらっとほかのことも考えたようで、じっと真琴をみつめた。真琴は「あれ」と少し驚いてから、「そんな顔しなくても大丈夫だよ」と笑った。



学校からホームセンターまでは少しだけ遠い。それに、こういう部の買い物には顧問が付き添わなければいけない決まりがあった。学校にはたくさんの決まりがある。ときおりあってないようなものもあるけれど、高校生という生き物はそういう決まりに縛られていないと間違ったことをしてしまうらしい。真琴はとくにその決まりが邪魔だなぁと思ったことはないけれど、べつになくても道を踏み外すようなことはないんだろうなぁとは、考えていた。考えてから、車の中がみょうに緊張で満ちているのがわかった。天方はいつもより少し緊張しているらしかった。たしかにふたりでこんなせまいところにいるのに、会話がない。真琴はそうだなぁと少し考えてから、「そういえば、先生はどうして先生になったんですか」と聞いた。

「どういう意味?」
「色々ありますけど、その、会社、どうしてやめちゃったのかなぁって」
「もう、渚君みたいなこと聞くのね」

やっぱり地雷だったかなぁと真琴は思ったけれど、それくらいしか話題がなかった。照れ隠しでもなんでもいいから、ここから色々広がってしまえ、くらいに思っていたのだ。あんまりこういうのは好きではないけれど。

「はは・・・あいつはもう聞いたんですね・・・」
「そうよ。そのときもこう答えたけれど、大人にはね、いろんな事情ってやつがあるの。それから、話したくない過去も、あなたたちよりずっとあるのよ」
「はぁ、そうですか。なんかすみません」
「べつにいいけど、もうそのことには触れないでね!」
「・・・はい」

真琴は苦笑しながら、つくづく、この人は教師に向いていないなぁと思った。子供を子供と、大人を大人と区切ってしまうのは、おかしい。だって、子供にだっていろんな事情があるし、話したくない過去もたくさんある。けれど、それを言ってしまってはいけないとちゃんとわかっていたから、真琴は「そういえば大学で教員免許、とってらしたんですね」と。天方は進路の相談か何かだと思ったのか、「ええ、そうね。一応、目指してはいたから」と苦笑した。ここに遙がいたら文句のひとつでも出てきただろうけど、真琴はさすがにふたりっきりの空間でそんな文句を言う気にはなれなかった。

「大変だったんじゃないですか。大学のこととか、最近調べ始めたばっかりですけど、教育学部でないのに教員免許とるのはわりと大変だって、聞きました」
「そうね、大変、と言うのもなんだか変だけれど、それなりに忙しかったわ」
「どうして、教員免許とろうって思ったんですか」

天方はその質問の答えに、少しこまってしまったらしかった。多分、文系なら就職でつかえるだとか、いざというときに進路に困らないだとか、そんなことをそそのかされて取得したのだろう。こういうのを、大抵の高校生がわかってしまう。ほんとうに教師になりたくてなった人と、もっとほかの自分もあったのに、それをあきらめて教師になってしまった人と、いろんな人がいる。どれがダメだとか、そういうことはないけれど、でも、この人はほんとうに教師に向いてはいないのだと、真琴は思った。だって、教師としての自分をちゃんと持っている人なら、こんなに緊張した空気なんて、出してはくれない。そこに隙間が空いていて、真琴は遙の視線を思い出した。思い出してから、何も言いはしなかったから、と思い出さなかったことにした。車の中に、こぷこぷと、水をそうするように、違う空気を注ぎ始める。ゆっくりと、気づかれないように。

「大人には言いたくない過去が、あるんですもんね」
「え、あ、まぁ、そうね。そんなものね」
「俺はまだ子供なので、なんだかさっきから聞いちゃいけないことばっかり聞いているような気がして、申し訳ないです」
「そうね、・・・そうね、まだ高校生だものね。きっとこれからわかっていくの。気にしなくていいのよ」
「先生、優しいですね。進路のこととか、俺もう二年なんで、そろそろ考えないといけないんですよね。まだぼんやりとしか決まってないんですけど、大学には進みたいなぁと思ってて、そのときに、また色々と相談しても、いいですか」
「え、もちろんよ!そうね、そういう時期だものね。わたしも、進路は色々と悩んだっけなあ・・・なつかしいわ」

真琴は、申し訳ないなぁとは思ったけれど、この人がどうして会社をやめなければいけないことになったのか、どうして夢破れてしまったのか、わかった気がした。中身が子供のまま、どこからどこへと流されてしまった人の、すこしだらしない空気が、そこにあったからだ。生徒が頑張ってプールを補修しているのに、この人はプールサイドで日傘をさしている。そういう人なんだなぁと思った。けれど、真琴はラッキーだったなぁとも、思うのだ。だらしない人のほうが、色々と面倒じゃない。だって、ガチガチに武装しているわけでもなく、部屋着でごろんと寝転んでくれているようなものだから。

天方はちゃんと、真琴が高校生で、高校生は進路なんてちっぽけなものに悩む子供だと思ってくれている。男の人と女の人が黙ったときにすることを、知らないと思ってくれている。こんな狭い場所で、男と女がいて、黙ってしまってはいけないと、真琴はちゃんとわかっていたのに。天方はむしろ黙って、すこし緊張した顔すら、していたのに。真琴はそれなりにいろんなことを知っている。女の人の身体の柔らかさだとか、肌の匂いだとか、それは実際に経験があるというわけでは、もちろんない。けれど知識としてはちゃんとある。天方にはきっと、ちゃんとした経験がある。そういうことを踏まえているのに、真琴を子供だと思っている。子供だと思っているのに、真琴のどこかしらか漂う男の人のにおいに、ちゃんと反応している。だから半袖の上着で、脇を心持ちしめて、うっすらと、制汗剤の匂いをさせていた。オートマティックだから、左足はステップに乗せて、内股で、少し運転しづらいだろうに、足を閉じている。そして、そういった仕草の全てを、自分の魅力だとちゃんとわかって、けれど、真琴にはわからないものだと、そう思っている。真琴を後部座席に乗せてもよかったのに、助手席に乗せてしまっている。ただの運転手になりきれないだらしなさが、ちゃんとあった。ただの知識を、実践では生かせないものだと思い込んでいるのだ。そんなのは、考えているよりずっと簡単なのに。からだは全部わかっている。なるようにすればいいし、からだはなるようになっていく。女の人が濡れるように、男の人が硬くなるように。

「先生」
「なに?」
「・・・なんでもないです」
「なぁに、変な人ね」

あ、と真琴は思った。思って、満足した。指摘してしまったら、きっとダメになってしまう。だから「さっきの信号、左でしたよ」と、そこだけ指摘した。

「やだ、うそ」
「ホームセンターあんまり行かないんですか?」
「ええ、こないだ行ったのが、はじめてで」
「言ってくれればちゃんと道案内したのに」
「だって、はずかしかったんだもの」
「はは・・・そうですね、この道からでもいけますよ」

「少し遠回りにはなりますけど」と、真琴は男の人の声で言った。そうですね、あなたは車を運転するだけでかまわないんですよ、と思いながら。これまでのように、どこからどこへ、だらしなく流されていれば、それでかまわない。そうしたら、きっと、行き着く先は、橘真琴という男の腕の中だから。


END

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