赤い実、はじけた






人生なんて壮大なことを言うつもりはないけれど(そしてそれは世界にくらべたらとてもちっぽけなものだけれど)、いろんなことは唐突に訪れる。受け取る側の覚悟なんて待ってはくれないのだ。真琴はわりと幼少の頃からそれをちゃんとわかっていた。自分も唐突に生まれたし、妹と弟も唐突にできたし、遙も唐突に競泳をやめた。あらゆる物事は濁流のようになって真琴を飲み込んでいく。飲み込んで、そのまますごい速さで真琴を押し流していく。もう抵抗するのも虚しくなってくるほど、そうなのだ。真琴はちゃんとわかっていた。けれどやはり、物事は唐突にやってくる。声変わりも、随分唐突にやってきた。それは突然、そうなったのだ。

朝目覚めて、真琴が家族にいつもどおり「おはよう」と告げたとき、家族だけでなく、真琴も喉をおさえて、目をまるくした。その声はボーイソプラノのように高く澄んだ声ではなく、深くしゃがれ、低くて、とても聞き取りづらい声だったのだ。両親はまず「体調が悪いのか?」と心配そうな顔になり、真琴がそんなことはないと告げると、しばし考えて、真琴の喉の様子を見た。腫れも赤みもなかったので、父親の方が「ああ」と思いついたような顔になる。「声変わりがきたのかな」と、ふっくら笑った。母親もそれを聞いて、少し嬉しいような、戸惑うような複雑そうな顔になる。父親は「そうだな、俺の時もこれくらいだったよ。いつの間にか随分、大きくなったんだな」と。真琴の身長はもう母親を抜かそうとしていたし、父親との目線もだいぶ近くなってきていた。それはだんだんの変化だったけれど、こればかりは唐突だった。真琴は喉にできたりんごを詰まらせたような出っ張りを指でなぞって、とても、怖くなった。とにかく、怖くなったのだ。

それからしばらくは、高い声と低いしゃがれた声をいったりきたりして、日によってはとても声が出しづらい日があった。けれど真琴のまわりにはそういったことをもう経験してしまった人ばかりで、不安がる真琴とはうらはらに、周囲はただ「そういうものだよ」と納得してしまっている。真琴は濁流に飲み込まれていくような気がした。見知った感覚だ。そうして、もうどうしようもないのだな、と思って、悲しくなった。この先自分が発する声を、あまり好きになれそうには、なかった。

一ヶ月もするともう声変わりも終わり、真琴の声は低くくすんだ声になった。大人の男の声だ。何も気をつけずに声を出すと、それは自分でも驚くほど低く、冷たい響きをしていた。声をかけた女の子が、すこし構えてしまうくらいには、真琴は変わってしまった。一番ひどく傷ついたのは、真琴の声を聞いた遙が驚いたような顔になって、「なんだか知らない人みたいだ」と言ったことだった。ずっと知っている関係なのに、そんなことを言われたのが、とても辛い。真琴は、自分の声がすこし怖いと思った。それから、録音機器をつかって聞いた声に、すこし愕然とした。それは機械を通しているかどうかを差し置いて、とても冷たい心地がしたからだ。たったワンフレーズの言葉の色が、こんなにも変わってしまっている。声変わりがはじまったときよりも、ずっとずっと怖くなった気がした。だから、少し喉に力を入れて、少し高い声を、優しい声を思い描いて、もう一度、録音した。それを聞いてみると、まだ、ましなような気がした。だから真琴は少しずつ調整して、自分が出したい声を作り上げた。そうして、その声が完成したら、国語の教科書を何回も音読して、そのたびにその喉の感覚を確かめた。もう冷たい声が出てしまわないように、優しく、色のついた言葉で物事を伝えられるように、練習した。傍目から見てすこしこわいくらい、真琴は練習したのだ。そうして、今に至る。

真琴はもう意識しなくてもそのやわらかい声を出すことができるようになった。女の子に声をかけても、怖がる様子もないし、周囲ももうその声が真琴の声だと思っている。それは完璧になるまで作り上げられた人工的なものだったけれど、真琴はやっと、安心していた。濁流の中で自分の身を守る場所を見つけたような安心感が、そこにはあった。大抵の人が真琴の声を「やさしい声ね」と評価するし、男の人であっても、「なんだか聞いてると安心する」と言ってくれる。真琴はとにかく満足していた。やっと息ができたような、そんな気がしたのだ。



「・・・なんか」
「どうしたの?」
「なんか、今、よくわからないけど違うって、思った」

遙が首をかしげたのは、高校からの帰り道だった。大抵真琴ばかりが話すことになる帰り道で、遙は、唐突に、少し揺れた声をだした。それから、何かを思い出すような素振りをして、「おまえ、そんな声だったか?」と。真琴は背筋に氷を落とされたような気持ちになる。

「なに言ってるの?」
「・・・お前の声、なんか、ちがう」
「・・・違わないよ」
「違う」

遙は確信したような顔つきになって、真琴を見つめた。真琴はもう怖いのを通り越して、腹立たしい気持ちになった。だって、誰の、せいで、と。誰のせいで自分はこんなに頑張って、こんなに優しい声を作れるようになったのだと、拳を握った。それでも、真琴はぐっとこらえて、「なに言ってるんだよ」と笑って見せた。すると遙は怒ったように、真琴を見つめる。言葉にならないところまで、真琴はわかってしまって、遙が今自分を軽蔑しているのが、わかった。わかったから、「誰のせいだと思ってるんだよ!」と。

それは真琴のほんとうの声だった。だから、低くて、深くて、少し、くすんでいた。遙は驚いて、真琴を見つめる。真琴も驚いていた。そうして、いつか唐突にやってきた声変わりのときのように、喉仏に手をやって、冷や汗をかいた。どうして男はあわててりんごを飲み込んでしまったのだろうなぁと、歯がゆくなる。大昔の人がそんなヘマをしなければ、自分の声はまだ、高くて、澄んでいて、優しい色をしたままだったのに。こうして遥を傷つけることも、驚かすこともなかったのに。真琴が次の言葉を言えずにいると、遙が「もう一回」と言った。

「なにを・・・」
「ちがう、その声じゃない」
「え」
「さっきの、声」

真琴はからかわれているのかと構えたけれど、遙は真面目な顔になっていた。その深い水みたいな瞳で見つめられると、冗談ではないと、真琴にはすぐわかった。けれど、もう昔の声の出し方なんてものは忘れてしまっていて、いつものへつらうような声音でしか「ごめん」と言えなかった。

「もう、この声で慣れちゃったから、すぐには出せないんだ」
「・・・そう」
「ていうか、ごめん、怒鳴って・・・違う人みたいだったでしょ」

遙はその言葉を聞いて、「・・・そういえば、」と指で顎に触れる。そうしてから、「ああ、それでか」と。遙は言葉にしないだけで、ちゃんといろんなことを感じ取っている。言葉にしないだけで、みんなが言葉にしないことまで、わかってしまっている。だから真琴は少し、遙が怖い。怖いけれど、心地よかった。誰にもわかってもらえない自分を、昔から遙だけが、わかってくれているような気がして。

「違うんだ。そうじゃ、なかったんだ」
「え」
「おまえの声、好きだったんだ。違う人みたいっていうのは、そういう、意味じゃなかったんだ」

深くて、冷たくて、でもちゃんと優しいのがわかっているから、好きだったんだ、と遙はなんでもないことのように、呟いた。呟いてから、さっきとはまた違う色をした瞳で、真琴をじっと見つめた。その瞳に捕まってしまってから、ああ、また濁流がやってきたんだなぁと、真琴は思った。また、どうしようもない力で押し流される。もうどうしようもないんだと、悲しくなった。口の中に入り込んできた水は、甘くて、酸っぱくて、それからすこし、しょっぱかった。


END


真遥処女作

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