秋山と弁財




昼下がりの喫煙所には二つ影があった。一人は昨日歯医者へ行ってマスクのとれた秋山で、もう一人は珍しいことに弁財だった。二人とも昼食は別々に済ませたのだけれど、弁財が食堂から戻ってきてから「一服付き合ってくれ」と言ったのだ。どうやら近くのコンビニで久々に煙草を買ってきたらしい。秋山はめずらしいこともあるものだと、上着のポケットにセブンスターを忍ばせて、それに付き合うことにした。

「そういえば、弁財ってベヴェルだったな」

弁財は秋山の煙草より少し細長い煙草を口にくわえている。秋山は自分の煙草をくわえて、かちりとライターで火をつけた。弁財はライターは買わなかったらしく、「ライター貸してくれ」と秋山に手を出した。秋山は別になんとも思わずに、それを弁財に差し出す。

「癖がないのが好きなんだ」
「セブンスターも癖が少ない方だけど」
「あとは少し甘いのがいい」
「…キャスターの5ミリとか」
「吸ったことないな」
「日高にもらうといいぞ」
「…」

秋山がそう言うと弁財はぴくりと反応してから煙を吐いた。秋山は弁財に煙草に誘われた時に少なからず察していたのだが、弁財の反応を見るに秋山の勘は正しかったようだ。

「…日高はキャスターなのか」
「ああ、こないだここで一緒になった」
「煙草はそう吸わない」
「何か悩み事があるとき以外は」
「…」

弁財はまた黙って煙を吐き出した。細長い煙草を、じりじりと減らしている。久々に吸ったせいか、背中を喫煙室の壁に預けていた。しかし煙草を持つ右手は慣れた形をしていて、煙草はいつもそこにあるかのように人差し指と中指の間におさまっていた。秋山は左手でそれと同じかたちをしていたが、そういえば日高は人差しと親指で時折摘まむように持つ癖があった。そして灰を落とすときは親指で弾く。秋山は人差し指で叩いて落とすタイプだった。弁財は日高と同じく親指ではじくタイプだ。弁財は秋山が思い描いたように灰を灰皿に落として、細長い煙草をまたくわえる。

「煙草吸えるようになったならまぁ、大丈夫だろうけど」
「そうだな。お前にもずいぶん世話をかけた」
「かまわないさ。便座さえおろす癖をつけてくれたら。あとなんなら座って用を足すようにしてくれたらとても助かる」
「すまないがそこだけは譲れない。日本男児たるもの立ってするべきだ」
「…」
「…」

秋山は諦めたように煙草の灰を人差し指で落とした。そうして、こういった応酬をするようになったのも最近のことだなぁとしみじみ思った。この年になって関係が変わるなんていうのがなんだかおかしいような、こそばゆいような、そんな気持ちになった。弁財は近頃秋山が洗濯物をたたむたびに文句を言うし、秋山は弁財の部屋の掃除の仕方に文句をつけるようになった。しかしそれで二人の関係がひずんだかというと、そうでもない。むしろ以前よりぐっと近づいたような気さえする。もう縮まることがないと思っていたのに、二人の針は思ったよりも短かったらしい。けれど、秋山はハリネズミのジレンマを思い描くと、いつも日高のことを思い出す。日高は基本的にハリネズミのジレンマのような人間関係における面倒な部分をスルーして相手の領域に踏み込んでくる。弁財はきっとそこに戸惑って、今ここで煙草をふかしているのかもしれない。

「なぁ、ヤマアラシのジレンマって知ってるか」

そう尋ねたのは、秋山だった。

「ハリネズミじゃないのか」
「もともとはヤマアラシのジレンマがその言葉のルーツになっているらしい。今じゃハリネズミの方が有名だけど」
「ヤマアラシとハリネズミでどう違うんだ」
「ヤマアラシは相手を威嚇するために針をたてるらしい。ハリネズミは逆に、自分の身を守るために針を立てるんだ。そして、ヤマアラシの針は相手に刺さると抜け落ちるけれど、ハリネズミの針は抜けない。ずっと、そこにあるままなんだって、こないだなんかで見たんだよな」
「哲学的だな。相手を攻撃するための針は簡単に抜け落ちるのに、自分を守るための針はなかなか抜け落ちないなんて」
「だから、それを人間に例えて、哲学者は色々言うらしい」
「俺はそういう話はあまり得意じゃないんだ。どちらかというと理系よりの思考だから」

弁財は短くなった煙草を灰皿にぞんざいに投げ入れた。灰皿には水がたまっていて、じゅっという音がする。秋山は灰皿のふちに煙草を押し付けて、丁寧に火を消した。

「なあ、弁財、ヤマアラシの針と、ハリネズミの針、どっちが厄介なんだろうな」
「…ハリネズミの方じゃないか?だって、ずっとあるんだろう」
「そうだな。だから、ハリネズミが誰かを攻撃しようとしたら、それはもう面倒なことになるのは目に見えてる」
「…何か見透かしたような口ぶりに聞こえるが」

弁財は時計を見てから、二本目に火をつけた。秋山も、同じように煙草に火をつける。

「なにも見透かしてなんかいないさ。ただ、弁財がめずらしく怯えたような顔をしてたから」

弁財は細長い煙草を口の端にひっかけると、だらしなく煙を吐きながら、「そのハリネズミも、ヤマアラシも、出会わなければ痛い思いをしなくてよかったんだろうな」と呟いた。

「けど、出会わなければ凍えたまんまだ」
「そっちの方がいいときだって、ある」
「…弁財がそう言うのなら、俺は何も言わないよ。俺は、弁財を針で刺したいわけじゃない。今のままで十分あったかい」
「…」

煙草の先端から立ち上る煙は、行き場を失ったようにくゆり、じっとりと滞留して、弁財の制服に浸み込んだ。甘くない、たださっぱりとした煙たさを残して。


END

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